富山写真語 この人ありて・万華鏡

東日本大震災と赤玉

菊地徳男さん 富山県薬業連合会副会長菊地徳男さん

水橋は江戸時代から越中売薬のふるさとである。また地名からもわかる通り水運業によって栄えた町であり、「水神社」という名の神社がある。その水神社に、昨年七月、水橋の名所や名物を描いた電飾灯が奉納された。切り絵作家の手によるその電飾灯の中には、むろん、背中に荷をかついだ昔ながらの売薬さんの一枚もあった。披露セレモニーには、電飾灯の作成に尽力された菊地徳男さん(富山県薬業連合会副会長・七十歳)の姿があった。菊地さんはその直前に岩手被災地の避難所回りから帰ってきたばかりだった。
配置薬品会社の代表として宮古市を中心に沿岸部にも多くの顧客を持つ菊地さん、営業地区の多くが東日本大震災被災地域にあった。三・一一以降、お客さんの安否が心配で役場に電話するが、個人情報は教えられないとにべもない。現地へ行く手段もなくやきもきする菊地さんの携帯にある日電話がかかってくる。
「避難所にいるお客さんが公衆電話からかけてきたんです。よくぞ無事でって話したがる私に『みんな電話の順番待ってるから長い話はできないけど、とにかく赤玉送ってくれ』って。避難所に入ってからはいただいてばかりの食事になるし、寒いので冷えもあるでしょうしね。それでおなかをこわして下痢をする人が多いんです。同じ避難所に具合の悪い人がいると、これ飲みなさいといつもカバンに入れて持ってる人が、数少ない赤玉を分けてあげるんですね。すると効き目がわかるから、いやいいもんだねと、あの頃は非常に重宝がられたんですね」
岩手からの電話は続いた。中には、親に頼まれたとインターネットで探し、県の薬業連合会に連絡が入ったこともあった。
「岩手には五十年以上前、家内と結婚する前から行ってますから。ふるさとが二つあるようなもんです。最初に行った頃は柳行李を風呂敷に包んでしょって歩いて回りました。戦争から復員してきた先輩に教わって脚絆に地下足袋です。その方が山を歩きやすいからね。
それからずいぶんと経って、売薬さんのスタイルは変わったけど、お客さんとのふれあいの仕事っていう中身は変わってないですね。長年行ってると家族同然なんですよ。浜の方へ行けば取り立ての鮑や牡蠣をご馳走になったり。そんなふうにお世話になった多くのお得意様がお亡くなりになったんです」
菊地さんの言葉に無念さが滲む。昨年は、七月、九月、十二月と三度、岩手の被災地を訪れた。宿泊施設もまだ整わない中、馴染みのお客さんに宿を借り、見舞い品を持って避難所を回った。
「赤玉、熊胆円(熊の胆)が人気がありましたね。冷えや食事のこともあるだろうけど、それより何よりやっぱりストレスですよ。毎日泣いて暮らしてんだもん。話してると涙が出てくるんです。懐かしい顔ほどそうですよ」
「病院の薬よりも富山の薬がいいって言ってくださるんです。安心感ですよ。若い時からずっと飲んできてるからこれさえ飲めば安心だと。実際効くしね」
赤い大きな丸の薬袋は見るだけで安心感をもたらすのかもしれない。
「遠くからでも一目瞭然で腹薬だとわかるからね。熊胆円もそうだよね。パッと見てわかるものね」
最近は配置薬の小袋もビニール袋になっているところが多いが菊地さんは紙の小袋を今も使い続ける。
「やっぱり赤玉の絵を描いた小袋がないとね。常に持って歩く人はこれが大事なんですよ」
震災で多くの配置薬が一瞬にして失われた。規制緩和以来厳しさを増す配置薬業にとっては大きな痛手だ。だが赤玉を手にしながら菊地さんは語る。
「もう体の一部みたいなもんですよ。自信持って勧められるし、感謝をされるその喜びって言いますかね。笑顔と言葉がもろに跳ね返ってくるからうれしくて。自分のやってる仕事は天職だなと思うんですよ」

(税光詩子・記)

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宝を生かしたい

辻澤功さん、上坂甚誠さん
写真 左 ・ 南砺市文化財保護審議会委員辻澤 功さん
写真 右 ・ 太美山地区自治振興会長上坂甚誠さん

福光町農林漁業資料館は、閉館となってすでに八年の時が過ぎているというが、白亜の外観はあまり傷みも見られず、雪に負けない清々しい姿を見せている。だが、竣工は昭和五十六年なのですでに三十年余りが経っていることになる。
当時、この資料館設立に関わった辻澤功さん(七十三歳)、そして太美山地区自治振興会長として現在の資料館運営に携わる上坂甚誠さん(六十六歳)のお二人にお話を伺う。
辻澤 「昭和四十年代後半、戦後働いて儲けて一辺倒だったところにオイルショックが来て、文化財を大切にしよう、足元を見つめようという気運が出始めたんです。一方で景気が良くなっていく盛りで家を建て替える人が多かったんですが、それまで納屋やアマ、ニワにあった道具が使いようもなく全部捨てられていました。それじゃダメなんじゃないかと、当時の町役場では家を壊すと聞くと民具などを譲ってもらい預かって保管するようになったんです。そこへ太美山、西太美を中心とした地場産業の振興と観光客誘致を図る自然休養村事業の計画ができて、その中のひとつにこの資料館がありました。保管してあった民具を活かして、地元の生活の跡がお客さんにも見えるようにと作られたんです」
辻澤 「昭和五十七年四月一日が開館日でした。運ぶのも大変でしたが、展示も大変だったんです。展示するにも当時すでに担当者が何の道具かわからないということもあって、民具や古美術に造詣が深かった波多平一さんに声がかかり、波多さんから私(当時は町総務課に勤務)に声がかかって開設までの展示を手伝うことになりました。黒の画用紙を買ってきて、波多さんに言われるままに、ひとつひとつの道具の名前を書いていきました(今も黒画用紙は展示室にそのまま残る)。何しろ、展示物が多いわ、時間がないわで半徹した日もありましたよ」
辻澤 「飾った機に糸をかけるのが結局開館まで間に合わず、その頃、光徳寺で藍染めをやっている人がいて開館した後で糸をかけてもらったと聞いています。昔は福光の町中にもかいこの糸をとっている人がたくさんおいでて、そういう道具が開館したあと資料館にどんどん寄せられてきたんです」
資料館の開設はさらに民具を呼びこんだ。そのようにして集まったたくさんの資料が今は静かに眠る。市の文化財保護審議会委員を務める辻澤さんにとっては今の状況に忸怩たる思いがあるようだ。
「先の審議会で、今は集めようとしても集められない道具がこのような実態にあるんだと話をしたんです。昔の平場の生活様式を伝える道具を広く公開できないかと市に働きかけていきたいですね」
眠れる宝の山を活かす方法はないのだろうか。
上坂 「この地区だけの問題ではないけれど、人口が減ってきて、将来について悲観的になりがちなのが現実です。そういう状況でどうしたらいいか考えてみて、自信を取り戻せるような何かがないか『再発見』しようと働きかけているんです。自然もそうだし歴史的なこと、刀利谷の聖人・山崎兵蔵先生(元刀利分校の教師)を元にした絵本作りや『煙硝の道』の掘り起こしをやっているんです。煙硝の道では金沢の崎浦公民館や湯涌地区と手を結んでいます。新幹線の開通も控えていますしね。本当に興味のある人を招き入れるのに本物を整備していきたい。その中で資料館の民具も活かせないかと思うんです。たとえ五十軒が二十軒になっても誇りを持ってやっていければそれでいいんじゃないかと思っているんです」
この季節、雪に埋もれ、入り口までの道もない資料館の民具に、お二人の話が聞こえることを願う。

(税光詩子・記)

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緑の繭に魅せられて

がうん天蚕の会 代表 友咲貴代美さん がうん天蚕の会 代表友咲貴代美さん

「八尾の蚕」はまだ過去の話になっていない。生きている。奇跡的に、今も伝統を引き継ぎ、養蚕を守り続ける人がいる。養蚕家というと、近寄りがたい老齢男性を想像してしまうが、現れたのは軽やかないつも笑顔の女性、友咲貴代美さん(四十六歳)。
友咲さんが手がける天蚕(ヤママユガ)は、屋内で飼う白い蚕(家蚕)と違い、桑の葉でなくクヌギなどの広葉樹を食べる。野外で育てるので、白い蚕の四十倍もの手間がかかり、全国的にも手がける人は少ない。四十倍の手間がどれ程のものか、三倍分ぐらいの手間を聞いただけで気が遠くなりそうだったが、天蚕から取れる糸は黄緑色の美しい光沢があり、「繊維のダイヤモンド」とも呼ばれ、キロ七十万円もするという。目の前に広げてくださった天蚕糸は、柔らかな質感と黄緑色の優しい色合いで思わず頬ずりしたくなったが、七十万円なので自重する。
七年前のウォーキングの途中で緑の繭を拾う。その美しさに魅せられ、即、インターネットで調べ、その日に後に友咲さんの師匠となる八尾の天蚕家、井野下堅佑さんに電話する。二日後に井野下さんのがうん(八尾の地区名、外雲)天蚕飼育場を訪れて以来、作業を手伝いながら天蚕を学び続けた。出会いから三年後、井野下さんが亡くなった葬儀の場で、誰ということなく友咲さんに後を継いでほしいという声が上がる。もとより、井野下さんの技術と志を途絶えさせたくないとの思いから、仲間を募り、翌年(平成二十一年)三月「富山県がうん天蚕の会」を立ち上げる。以来、並々ならぬ愛情と情熱で天蚕と向き合ってきた。
驚くのはその行動の早さと仕事量の多さだ。友咲さん曰く「知識、経験、機材、資金等何もない、あるのは情熱のみ」の状態から、会を立ち上げたその春に、隣の耕作放棄地の開墾植林を決める。「開墾」は書くとただの二文字だが、木の根を引き抜くところから始まり、少なからぬ資金と労力が必要になる。パワーショベルやトラクターの機械や運転の作業、資金等々、「人たらし」力で多くの人を巻き込み、自身も雪混じりの泥の中を木のようになった葛葉を払うなどして千平方メートルを開墾、三百本を植樹した。
「去年より進歩していないとやっている意味がない」が信条で、二年目は開墾植樹を広げる一方で、一年目にはできなかった製糸を手がけるために群馬県に合宿し、技術指導を受ける。また、八尾ふるさとアカデミーの中で天蚕学科を開講し講師を務め、講演を行うなど外部への発信にも力を入れた。わからないことはすぐ聞く姿勢から、国際野蚕学会とのつながりも深め、学会での発表も成し遂げる。
三年目は、製糸から製品や関連商品の開発、販売に力を入れた。天蚕は家蚕に比べ、副産物率が四割と高い。その四割を活かせないか、表面の糸くずになる「きびそ」や蚕の糸をとった後の「びす」、繰糸に適さない繭を紡いだ「真綿」を活かした、がうんオリジナルの糸や織物ができないかと、今も商品開発は続く。糸のみならず、糞は糞染めに、脱皮した抜け殻も使えないかと、まるごとの使い切りを目指すのはやはり蚕への深い愛情ゆえだろう。
四年目となる昨年は、会のフィールドを利用したグリーンツーリズムやエコツーリズムとの連携に力を入れてきた。フォレストリーダー、ナチュラリストでもある友咲さんにとってはむしろ自然な流れだろう。八尾の町や里山をゆっくり散策し、がうんの森を訪ねる。
「八尾が養蚕で栄えたことを知らない人が多いんです。おわら風の盆だけではない八尾の歴史や里山の魅力を発信していきたい。特に蚕は、衣食住の『衣』が『農』と関わっていること、大地の恵みから『衣』ができているんだということを感じてほしいんです」
「日本で天蚕で食べている人は今のところいません。天蚕で食べる初めての人になりたい。『野蚕やさん』になりたいんです」
言葉遊びを忘れないユーモアも、彼女を彩る魅力の一つだ。

(税光詩子・記)

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もてなしは細部に宿る

マンテンホテル総料理長 江向博保さん マンテンホテル総料理長江向博保さん

「朝食」が、ホテルの評価の決め手となる。その善し悪しでホテルの印象がガラッと変わったという体験をあなたもお持ちではないか。だが今日びのホテル業は楽ではない。インターネットのホテル検索サイトには必ず「口コミ」欄があり、点数がつけられ、常に厳しい評価に晒され続ける。そんな中、有名ホテル検索サイトで富山のホテル朝食のトップを行くのが富山マンテンホテルだ。今回のゲストは、その朝食の仕掛け人、北陸三県にまたがるホテルの料理を束ねるマンテンホテル総料理長、江向博保さん(五十七歳)。
まずは朝食を食するのが正しい取材と考え、ホテル十階のレストランに向かう。バイキングコーナーはさほど広くないが、枯れ木も山の賑わいといった無駄なお菜がない。結局、お盆からはみ出るほど持ってきてしまった。日差しが降り注ぐ窓から、立山連峰がすっきりと見える。女性スタッフの笑顔と気配り、きびきびした動きは魅力的で、時間があればずっとここにいたいと思わせるような佇まいだ。
そう、お話を伺わなくては。「レストランというよりキッチンにいるような気がしました」
「ありがとうございます。マンテンホテルの朝食のコンセプトは『おふくろの味』。家庭にいるような雰囲気を味わっていただきたい。料理はうす味で無添加の食材を心がけています。サービスをそのように言っていただいて、早速、係の者に伝えたいと思います」
富山名産の小鉢が並ぶのはわくわくしますね。
「自家製の鱒寿司、ホタルイカの沖漬け、イカの黒作り、白エビのマリネ、さすの昆布〆など、おみやげにしたいと、お客様に声をかけていただくなど好評です」
ホームページを拝見すると、ご飯とみそ汁には特にこだわっていらっしゃるようですね。
「富山の食というと、ご飯ですからね。富山県産コシヒカリは信用ある米屋さんで用立てます。水は井戸水を使っていますが、ご飯を浸す時間、保温時間、どれが一番おいしく提供できるのか、様々な試行錯誤を繰り返しデータを取りました。ご飯を口に入れる温度は五十五度から六十度です。ジャーからご飯をよそって口に入れるまでが何分かかるかなど、いろいろなことを考慮して保温の温度・時間を考えます。ガス釜二台で時間をずらして炊き、常に炊きたての状態になるようにしています」
みそ汁にも同様の細かな配慮が張り巡らされている。
朝食の開始時間は六時三十分と早めですね。
「以前は七時からだったんですが、調べてみると七時前後のお客様が多かった。それで時間を早めてみたところ利用率が上がったんです。お母さんは家族が早く出かけるとなればそれに合わせて朝食を作ってくれるでしょう? そういうホテルでありたいと思います。声なき声を聞いていくことが大切ですね」
新幹線の開通を控え、富山の食を売り込む動きも活発になってきていますよね。
「変に奇をてらう必要はないんじゃないでしょうか。たとえば、山だと、炊きたてのご飯があって、みそ汁があって、様々な漬け物がある。蕪と塩の絶妙な塩加減を地元の人は知っている。おいしいものはおいしい。本当においしいと思えるものをお出しする。それが全てではないでしょうか」
利賀村出身で、観光マイスターでもある兄の中谷信一さんの依頼から五箇山おやきの商品開発にも携わる。これも粉選びから具材、一個の大きさなど、試行錯誤を重ね、利賀に足を運びながら一年をかけて、五種類の山菜のおやきを完成した。
「地元のお母さんたちは勘がいい。素材をよく知っている。長年山菜とつきあってきた知恵はさすがですよ」
依頼を受ければ、休日にPTAの講師も引き受ける。子どもたちに愛情ある本当のおいしいものを知って欲しい、次代に、本物の「食」を引き継いでいきたいとの真摯な思いが伝わってきた。
「おいしかったと言っていただいて、お金までいただく。こんな幸せな仕事はないですね」

(税光詩子・記)

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学芸員と話しに行こう

不破光大さん、伊串祐紀さん
写真 右 ・ 魚津水族館学芸員不破光大さん
写真 左 ・ 魚津水族館学芸員伊串祐紀さん

四月上旬の休日、創立百周年という節目のリニューアルを終えた館内は想像以上に大勢の人でごった返していた。子ども連れが多いが、カップル、三世代ファミリー、老若男女問わずあらゆる年代が見られるのは水族館ならではか。外は爆弾低気圧が通過中で雨風の肌寒い日だということを忘れてしまう程の賑やかさだ。
入り口付近で「お母さん、ウーパールーパーがいるよ!」どこかの女の子がいうので、思わずどれどれとのぞき込むと、イモリだった。大水槽のトンネルでは抱っこされた幼子が、「ア、ア」と優雅に泳ぐ大きな魚を指さして声をあげる。おさかなショーでは時間前に子どもたちが前に陣取り、興味津々に見守る。ホタルイカの発光実験室は通路も人でぎっしりだ。
お忙しい中、魚津水族館学芸員の不破光大さん(三十三歳)、伊串祐紀さん(二十九歳)のお二人にお話を伺う。
想像以上の人出ですね。
伊串 「もともと春先は入館者が増える時期なのですが、今年は去年の二〜三倍です。マスコミにうまく取り上げてもらえたおかげでしょうか」
リニューアルで何が変わったのでしょうか。
伊串 「入り口付近の熱帯魚の水槽が『田んぼの生物多様性コーナー』に変わりました。三十年前は熱帯魚が珍しかったのですが、今は以前に当たり前だったメダカやカエルなどが逆に珍しい時代になりつつあります」
用水路や田んぼをイメージして作られた水槽に、メダカ、ドジョウ、イモリ、トノサマガエル、シマヘビなどの懐かしい生き物が。野生のトノサマガエルは実はすぐに物陰に隠れてしまうそうだが、人前でも逃げないよう餌付けで訓練をしたとのこと。ちょっと見には分からない「見せる」ためのご苦労があるようだ。
不破 「『もっと富山にこだわる』が、リニューアルのテーマのひとつです。田んぼの水槽ができたことで、入り口の北アルプスの渓流の水槽から深海まで、流れをたどってご覧いただけます」
子どもさんがずいぶんたくさんいらっしゃいますね。
不破 「以前から小さなお子さんも多かったのですが、『水族館は暗くてこわくて子どもには話が難しい』という声がありました。実際、小学校高学年向けの展示が多くて、展示の対象がずれてきたんです。今回、田んぼの生物多様性コーナーなどは目線をぐっと低くして水槽を覗きやすくしましたし、新設のキッズコーナーも広く明るいので人気なんですよ」
伊串 「事務所にいても、以前は聞こえなかった子どもたちの歓声が聞こえるんです。子どもが笑うと大人も笑う。よその子どもさんでも笑っていると釣られて周りのおじいちゃんおばあちゃんが喜んでいらっしゃる。そういう光景を目にするのは嬉しいことですね」
「富山」が展示のテーマのひとつだが、お二人とももっと富山の生物を知ってほしいと語る。
不破 「片貝川などの水生生物を調べていますが、生物の住処としていいところが残っているなと思っていても、次の時に来てみると改修されて跡形もなくなっていることがよくあるんです。何年かしたらいなくなってしまうのではと、心配になることがあります」
伊串 「僕は愛知県出身なのですが、十五年前、僕が愛知の川で遊んでいた頃の自然がまだここには残っています。僕が遊んだ愛知の河川は改修が進み、在来種が姿を消し、外来種が幅を利かせています。富山の川がそうならないように、現状や生物をもっと知ってほしいし、環境を守り続ける大切さを知ってほしいですね」
イケメンのお二人。お客様と話されることはありますか?
伊串 「けっこう館内をうろうろしてるんですよ。県外からいらっしゃった水族館通の方が『こんなにひょこひょこ学芸員が出てくる水族館は他にないんじゃないの。でもそれがいいけどね』と言われました。どんどん話しかけてください。こっちからも声をかけますので」
不破 「お客様の中に出るようにと館長からも声がかかっています。より楽しんでいただけるよう、お客様に魚の話をしていきたいですね」

(税光詩子・記)

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立山信仰のイメージ戦略

高志の国文学館副主幹・学芸員 文学博士 福江 充さん
高志の国文学館副主幹・学芸員 文学博士福江 充さん

「先日、富士山が世界遺産として登録されることになったとニュースが報じていた。注目すべきは、自然遺産としてではなく、「信仰の山」としての歴史的価値が認められての認定ということである。だが、富士山だけが特別なわけでなく、かつて日本の主だった山々は霊山として崇められ、登山はもともと「信仰登山」として始まったらしい。
むろん立山も、古来より日本各地から参拝者が訪れた名高い霊山のひとつだ。日本各地から訪れる参詣者は越中に入ると道標に誘われて立山頂上を目指したが、その道は今も立山道として、その名残をとどめる。
多くの参拝客が訪れた立山信仰の精神世界を広く一般に紹介するために、平成三年、立山博物館が開設された。この博物館の準備期間から二十数年にわたり学芸員を務められた福江充さん(四十九歳)にお話を伺う。立山信仰や曼荼羅の研究によって数々の賞を受賞された福江さんは、現在は高志の国文学館に。新緑の雑木林に囲まれた文学館をお訪ねする。堅いテーマをご研究とあって鹿爪らしい方かと思いきや、明るくきさくなお人柄にホッとする。
年間の参拝客は何人ぐらいだったのでしょうか。
「江戸後期には七、八月の間に毎年六千から七千人の登山者がありました。伊勢や富士山のようなメジャーな霊場への参詣からすると日本海側ということもあり、数は多くはないかも知れません。ですが、参拝者の数では計れない影響力がありましたね」
どういうことでしょうか。
「たとえば薬局で薬を選ぶとき、効能がはっきりして効き目がわかりやすいものを選びますよね。立山信仰はそういう意味で、他の信仰と比べて『女人救済』という女性にとっての効き目がはっきりしていたんです」
女性は参詣できないのに、どのように信仰は広がっていたのでしょうか。
「全国へ布教にまわったのは芦峅寺宿坊(僧侶や参拝者のために作られた宿泊施設)の衆徒(僧侶や神主)たちです。日本各地に縄張りを決めて檀那場(信者がある程度集中している得意先)を廻りました。この時に大きな宣伝効果があったのが立山曼荼羅です。難しい説教よりも、曼荼羅を使った絵解きの方がずっとわかりやすいですよね。時には身振り手振りをまじえた話芸にずいぶん人気があったようです」
衆徒は今でいう、イケメン人気芸人のような人だったのかもと想像してしまう。
吉原や大名屋敷にも信者がいたということですね。
「吉原の女性たちはそこから生涯外に出ることが出来ません。だからこそ、立山信仰の女人救済への思いや憧れも強かった。一方で、場所を離れないということは壊れない、確実な檀那場だったということです。言い方が悪いかもしれませんが、遊郭は仕事柄、次々と入れ替わって多くの信者を獲得できる場所でした。吉原を押さえたことでそこに出入りする有力大名の屋敷にもつてを広げていきます。江戸末期には大奥にも手を伸ばし、明治維新がなかったら将軍にも届いていたかも、という勢いでした」
吉原は閉じられた世界でありながら、それを利用して情報発信センターとして拡大に取り込んだ。販路開拓や心を掴む宣伝方法、きめ細やかな対応、衆徒たちの営業手腕は、少しも色あせず現代にも通じる。
「立山信仰は、極楽浄土よりも地獄堕ちに対する恐怖に焦点を当てているんです。誰しもが心から外せない不安感を持っていてそれを払拭したがる。立山信仰はそれをうまく活かしています。平安時代にすでに『不安ブランド』のイメージを確立してうまく大事にしてきました。地獄を中心にすえた立山信仰は、より開放的な富士山と対照的に双璧をなしていると僕は思っています」

(税光詩子・記)

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アフリカ青年とJA

矢方 憲三さん(NPO法人グリーンツーリズムとやま事務局)
NPO法人グリーンツーリズムとやま事務局矢方 憲三さん
写真:引率の矢方憲三氏。南砺市井波の杉森家で。


過日に安倍総理が四十カ国近いアフリカの国々とマラソン会談をしたと話題になっていた。近年、経済支援という点で中国の存在が著しく台頭しているが、日本はアフリカ諸国と長く付き合ってきた歴史がある。たとえば、JICA(ジャイカ)を通して多くの日本の若者がアフリカ諸国へ派遣されていることはよく報道もされている。だが逆に研修生が訪れていることはあまり知られていないかもしれない。
昨年九月末から二週間、アフリカ七カ国十九名の青年が日本の農業を学びに富山を訪れた。受け入れ団体NPO法人グリーンツーリズムとやまの事務局として労を執られた矢方憲三さん(六十五歳)にお話を伺う。
スタッフ「日程表を拝見すると、中身の濃い二週間ですね。」
矢方さん「研修は九月からでしたが、長崎喜一代表を中心として迎える側の準備は五月から始まったんです。役所やJAとの事前調整もかなりハードでしたが、研修資料の作成も大変で百ページに及びました(研修生用は仏語に翻訳)。ですがJICAの職員の方からはこんなに細かに作ってある資料は初めてだと言われました。講義中、驚くほどたくさんの質問が出てきたのも資料が充実していたからと評価を受けました」
スタッフ「七カ国の研修生の印象はいかがですか。」
矢方さん「農業法人の社長や行政のトップに近い人たち、国の農業政策に関わる若きエリートたちでしたが、多岐にわたる質問、聞き漏らさないように聞く態度、真剣な眼差し、吸収できるものは何でも吸収していきたいという彼等の熱意には感服しました。研修とはかくあるべきと教えられましたし、こちらもやりがいがありましたね」
研修には時間を許す限りの現地視察が組み込まれている。富山市の卸売市場、黒部川土地改良区、農林水産総合技術センター、専業農家、複合経営農家、農産物販売所など、ハード事業、ソフト事業、流通販売の農協や加工・直売の六次産業まで、幅広く学んでほしいとの思いがこもっている。
ちょうど稲の刈り取り作業の時期でもあり、現場でコンバインを目にした青年たちから質問が相次ぐ。日本の農作業機は価格は高いがメンテナンスがしっかりしているので信頼性が高いという。
スタッフ「特にどういったことに興味を示されましたか?」
矢方さん「『日本のJAはすばらしい』と感心していましたね。全国から県を通じて個人までをつなぐネットワーク、それらを通じて集荷、流通、販売、加工、利益の分配、営農指導が行われるシステムについて自国の組織作りの参考にしたいと熱心な研修ぶりでした。
また、ほ場整備や用水の管理についても、整然とした様子に驚いていました。富山県は全国の中でもほ場整備(小さな田をまとめて一つにし、効率のよい田にすること)が進んでいるんです。
彼等の国々の現状は、ちょうど日本の戦後、昭和三十年代のコロガシを使っていたあの頃のような状態だということです。機械が十分でなく、あっても壊れたらもう使えない。それに指示系統の仕組みがない。管理して決めるよと言っても明日になると誰もいない。水取合戦が繰り返される。そういう現状から見ると、ほ場整備が行き届き、その管理が継続されていることが信じられないほどのことなんですね。どうやって管理を維持しているのか、その方法論について熱心な質問がありました」
県のほ場整備の仕事に長く携わられた矢方さん、 「富山は山に恵まれていて水量が豊かですが、どうやって水を管理していくか、先人の苦労は常にそこにありました」とおっしゃる言葉に重みがある。
「アフリカではいくら井戸を掘っても数年後には元の木阿弥になっていると聞きました。現地人の人材づくり、指導者が大切なんです。帰ってからの彼等の活躍を期待したいですね」
(税光詩子・記)

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魚津に歌劇あり

北原 俊郎さん(㈱北原機工 代表取締役)
㈱北原機工 代表取締役北原 俊郎さん

蒸し暑い七月の中旬、今号の撮影に同行した。北原さん、本当は表に出ることがお嫌いらしいが、引き受けた以上はと腹をくくられたのか、俎上の鯉となり、カメラマンの注文に素直に従われている。最初に、ひとつ腹を決めると全力で向かう人柄が見えた気がした。 2010年に開催された第八回ふるさとミュージカル「米騒動」のゆかりの地であるてんこ水の場所へと向かう車中で話を伺う。
「米騒動は有名ですが暗い物語ですから最初はやりたくなかったんです。ただ調べるうちに、その当時の人たちの苦労がひしひしと伝わってくる。そして浜の女房たちの前向きなバイタリティー、そこから生まれる工夫や知恵、それを今の人たちに伝えたいと思うようになりました。ただ、私は、米屋が悪者で母ちゃんたちが被害者で、という構図にはしたくありませんでした。皆、それぞれの立場があって事情がある。その辺をちゃんと描きたいと思いました」
現在は四年に一度のペースで上演されていて、脚本作りのため、一年は調査に費やすという。「米騒動」のような歴史物は、誤りがないよう、地元の歴史家の検証を受ける。「米騒動」は七稿に及び、周到な仕事ぶりが窺える。
「幕開けの一幕に、現代のツアーガイドで現地を案内する場面があるんです。その案内人を、僕が昔に実際にガイドを受けた当時の大町公民館の館長さん、寺崎さんにお願いしたんです。しかし、すでにご高齢でセリフを覚えることがむずかしくなっておられました。そこで、館長さんと同い年の元アナウンサーに吹き替えをお願いして、それが、うまくいったんです」
寺崎さんの生き生きとした演技は、セリフ覚えが難しい人とは思われない。失われたかに見えた寺崎さんの力を引き出している。地域に根ざす公演ならではだ。 だが地域といっても公演のレベルは高い。オーケストラの生演奏、楽曲は書き下ろし、プロの歌手を招いての歌唱が素晴らしいのはもちろんだが、全員でのハーモニーも厚みがあり、聞き応えがある。始まりから二十年を過ぎ、八回の公演を重ねた舞台はそんじょそこらの素人舞台ではない。必見に値する。
「米騒動の当時の関係者はすでに多くの方が亡くなっています。ひょっとしたらそういう方たちも、霊となって大ホールの天井でご覧になると思ったんですよ。彼らに『全然俺らの気持ちわかっとらんじゃないか』と言われないようにと思って作りましたね」
上演が終わると、大道具は保管場所がないのですぐにとり壊されるという。多くの出演者のスケジュールを調整するのも難しいことで、再演は不可能だという。 「『米騒動』が今でも話題に上るのはうれしいことですが、私自身は、あえて昔の作品を掘り起こしてどうこうというのはありません。うちの奥さんがちゃんとファイルしてくれていて助かりますが」
過去の功を引きずらず、さっと断ち切って前に向かうのも彼の魅力の一つだろう。気持ちはすでに来年に上演される鎌倉時代の松倉郷の刀匠、「郷義弘」に向かっている。
「わずか二十七歳で亡くなった郷義弘が残した刀の四十口のうち国宝が三口、重文が八口もあるんです。いかに天才だったかですよ。にも拘わらず、正式な資料はほとんど残っていません。一時は諦めようかとも思いました。ですが、郷家の子孫の方々とお目にかかるうちに、残すのは今しかないという思いが強くなっていきました。そうして調べだすと、いろいろなつながりが見えてくるから不思議なものですね」
演出も初演よりずっと手がけてきた。
「最初は細かく演技指導をしていたんですが、そのうち、私が相手の気持ちを阻害しているなと気づくことがあったんです。回を重ねるうちに、それぞれの役についてイメージしてもらい、自分たちで考えてもらうようになりました。自分でやるから楽しいんですよ。人と一緒にやるのはこういうことだなと思いましたね」
来年七月の上演が楽しみだ。
(税光詩子・記)

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トンビのお礼

湯浅 純孝さん(元ねいの里館長)
元ねいの里館長湯浅 純孝さん

「せっかくの機会だから、さわってらっしゃい」
玄関に並ぶ飼育カゴのひとつからシマヘビを取り出され、思わず足が遠のいた私に、ヘビをさわってみるよう重ねて呼びかけてくださった。ヘビはね、こうやって触れる場所を多くすると安心して落ち着くんですよ、と腕にヘビをからませて説明してくださるのは、湯浅純孝さん(七十二歳)。ねいの里の設立時から深く関わり、在職時の四年間と退職後の十一年間館長を務め、ねいの里を育ててきた「主」と呼ぶべき人だろう。
今年の春に後進に道を譲り、現在は顧問の立場で週二回の勤務となったということだが、取材中にも湯浅さんの在勤をめがけて連絡が入る。
館長の時期だけでなく、県庁に入職以来、長年にわたり富山の自然保護行政に携わって、子どもたちへの自然教育を積み重ねてきた湯浅さんは「自然教育・環境教育の達人」と称される。初めてお目にかかるのにまったく垣根を感じさせない人柄は、「自然界、人間界、両方のファンが多い」と言われるのも頷ける。
「環境教育は学校教育とは違うんですよ。参加して、触れて、なんやこれ?こわいな、気持ち悪いなと思うところから始まるんです。そこから時間を置くことが大事。見つけてそれから考える、その過程が大事です」
環境教育とは、つまりは「ヘビがさわれるようになること」なのかもしれない。話を聞いて、生き物や自然の別の見方ができるようになり、今まで怖かった生き物がこわくなくなったり、好きになったり、自分の殻をひとつ破ってダイナミックに自然に近づくこと。それができるようになるのが、ここの体験学習なのだ。
園内につくられた生態園は「モリアオガエルのプール」「タヌキモのホテル」「アリジゴクの団地」など子どもたちに親しんでもらうために、ネーミングが工夫されている。その中の一つ、「サンショウウオの託児所」を案内いただく。ホクリクサンショウウオは昭和五十九年に新種に認定された絶滅危惧種のひとつで、捕獲先の民有地はすぐにゴルフ場になり途絶えてしまい、すんでのところで確保できたのだという。
林の中を歩いていくと託児所の池への遊歩道は浮いた木道になっている。「なぜ木道になっているか、わかりますか。人がぬかるみを歩きやすくするためではないんです。サンショウウオが産卵に来る時や、幼生が成長するとこの斜面を登っていくので、それを人が踏まないようにしてあるんです」
このように、動植物に配慮した工夫が様々にある。
ビオトープと言うと学校の隅の濁った水たまりを思い浮かべてしまうが、ここのプールは清潔感があり、手入れが行き届いている。本物のビオトープだ。
小学校五年の時の担任の先生が、生き物を好きな僕に目をかけてくれたんです。そのおかげで、小学校からモズの雛をつかまえてきて早贄の研究をしていました。先生との出会いは大きかったですね」
鳥について語らせると終わらないと言われる湯浅さん(平成二十二年には日本鳥類保護連盟総裁賞受賞)だが、ここに鳥獣保護センターがあるのは湯浅さんの存在が大きく、鳥と県民、両者にとっての福音である。
鳥の病室のそれぞれの扉は木製で中が見えない。人が見るための動物園とは違い、あくまでも鳥優先に作られている。扉には大人と子ども用の上下二か所の覗き窓がついていて、蓋を持ち上げて中を覗ける。病室の中にはかなり回復し元気に動く鳥も見られ、そのうちの一羽を放鳥していただけることになった。湯浅さんに抱えられたトンビは大人しくしている。
「放したトンビが、この空の上で円を描いてお礼を言っていくんです。子どもたちはそれを見て喜ぶんですよ」
      いよいよ解き放たれると、低く飛び立ち、林の中に消えていった。本当にトンビが礼を言うのだろうかといぶかっていたが、しばらくして、青い空に大きく円を描くのが見えた。そして、長く、ひびく声で何度も「ぴぃーひょろ」と鳴いた。四年ぶりの空を舞ううれしさと、それを、世話になった人たちにも伝えたいというトンビの気持ちが、はっきりと感じられた。
(税光詩子・記)

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探し当てた美の公式

酒井 仁義さん(酒井工務店四代目棟梁)
酒井工務店四代目棟梁酒井 仁義さん

江戸時代、富士山、立山、白山の日本三霊山への登山は「三禅定」と呼ばれ、ガイド本が出るほどの人気だったらしい。それぞれの峰に社が建つが、中でも、立山雄山神社の社がある頂上の急峻さは他の二峰と比べても際立っている。立つだけでもやっとの雄山神社頂上にある峰本社の遷宮が百三十六年ぶりになったのが、十七年前の平成八年七月十日のことである。
テレビの特集番組が組まれ、当時はかなり話題となった。富山県民にとっては世紀の一大事業ともいえる雄山神社、峰本社を設計、施工したのは棟梁、酒井匠・酒井仁義さん(七十八歳)。酒井さんは明治から続く「匠」の称号を持つ酒井匠、宮大工の四代目に当たる。
「父親の三代目が昭和三十七年に雄山山頂の大鳥居を建立して以来のご縁です。佐伯宮司から峰本社造営の調査設計をしてもらえないかと話をいただきました」
新社殿は旧社殿と同じ寸法、工法で設計された。その際に、旧社殿が初めて精密に計られ、三十七枚の設計図が残されたのも特筆すべきことの一つだ。
「最初に見たときは、(みんなが峰本社がすばらしいと)やかましく言うけどそれほどでもないと思っとったけどね、図面書き始めて、書いてみてこんな立派なもんやったがかとびっくりしたね、梅鉢の紋(加賀藩の紋)もすごいがいちゃ。扉も実測してみて書いてみてすごいことがわかったね」
四代目が設計する唐破風の軒反りの美しさは定評がある。見事な曲線を生み出す独自の公式は模範と言われるが、その公式は一朝一夕に生まれたのではない。
話は先々代、二代目、安藏氏にさかのぼる。二代目が京都での修行中、東本願寺の造営に関わる。その折にともに修行したのが、同じ富山出身の佐々木嘉平だった。のちに佐々木嘉平は日本を代表する社寺建築家となったが、酒井匠二代目を深く信頼していた佐々木は昭和三十三年、仕事の依頼に酒井家を訪れる。
「その時にはじいちゃん(二代目)は亡くなっており、佐々木さんは残念がっておいでました。が、酒井さんには大変世話になったと、あんなに偉い先生がばあちゃんに最敬礼しておいでましたね」
跡継ぎは学校には出さないという父親に従い、中学卒業後すぐにこの世界に入った四代目だが、十八歳から二年間、佐々木嘉平の下で手ほどきを受ける。
「ある日、先生が現場でそろばんをはじいて計算式を書いておいでました。その計算から、ものすごいきれいな線が出てきました。どうしたらそうなるのか聞いても教えてもらえません。そのうちその計算式を書いた紙を放っていかれたんです。それをそっと拾って、大事にしてきました。計算があって曲線もある。でもどうやったらそうなるのか、それがわからんがです。日曜日ごとに紙を取り出してはいろいろやってみました。こんなことばっかりやっとってもダメやとも思いましたが、きれいな線を見ると諦めきれなくてね。そうこうやるうちにやっと見つかりました。線の公式がわかったんです。三十年かかりましたがね。遠回りしとるがですよ。でも一回わかったらもう忘れんちゃね」
長い時間をかけて手に入れた公式を自在に使い、四代目は今も現役で設計を手掛ける。
神殿の造営工事は、急峻な上に、時には風速六十メートルという環境、落雷、長くもたせるにはどうしたらいいかと心配の種は尽きなかったというが、「神様はいる」と実感することがいくつかあったという。たとえば、遷宮や工事の日にちは、ヘリコプターの都合があり半年も前に決めなければならなかったが、四代目の頭にそれぞれの日にちがさっと浮かんだ。そしてそれらの日はこの地には珍しくすべて晴れ渡った。遷宮の日、総勢百名の行列の行き帰りの前を日の光が先導したように見えた。気のせいかとも思ったが、後で話をして同じ光を見た人が何人もいたことがわかった。 「この仕事をいただいて本当にありがたかったし、幸せ者やと思うね」
(税光詩子・記) 

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