富山写真語 この人ありて・万華鏡

夫婦とんかつ

室田喜代子さん(「新とんかつ」の女主人) 「新とんかつ」の女主人室田喜代子さん

「笑顔が基本形」という顔がある。笑いじわが深く刻まれていて、人生の大方の時間をこの笑顔で過ごし、この笑顔で乗り切っていらしただろうと思える顔。
「新とんかつ」の女主人、室田喜代子さん(八十五歳)の顔はそういう顔だ。
スケートリンクで賑わう総曲輪グランドプラザ。傍らの並びにある店内で、一段落した時間にお話を伺う。
背筋はピンと伸び、きれいな銀色の御髪、そして笑顔。ありきたりだが、どうしてそんなにお若いんですか、の質問に「なじみの男性のお客さんにはこういうがです、『あなたのようにすてきな男性のお顔を見るだけで電気が頭のてっぺんからつま先まで走るんですよ』いうてね」と笑いながらエネルギッシュな答えが。
店の創業者、室田清作さん(故人)・喜代子さんご夫婦には結婚からドラマがあった。
喜代子さんはます寿司の老舗「千歳」のお嬢さんだったが、青年団活動で清作さんと知り合い、伴侶をこの人と決める。「戦後すぐでしょう。お金持っとる人も無い人もみんな一線に並んでのスタート、一緒になるなら、やる気のある人でないとダメだと思いましたね」経済的に豊かでなかった清作さんを、相手として認めないお父さんを押し切り結婚。総曲輪の神田横丁にお店を開いたのがその翌年の昭和二十四年。店の名前は「ニューとんかつ」。(古くからの馴染みのお客さんは今の「新とんかつ」の新を今でも「ニュー」と読む)
「最初の頃は大変でしたよ。でも、なんと言っても昔の総曲輪は勢いがありました。人で溢れてました。開店して間もない頃ですが、女将さん連中の新年会が海老亭でありました。黒紋付きを着た黒川さんやフクロヤさんやら女将さん方がずらっと並んだ座敷は迫力がありましたよ。お酒を注ぎに行ったら金物店の奥さんに『あんた、どこのお店け』と聞かれおずおずと『神田横丁で小さなとんかつ屋をやっております』と返事をしました。『そんなお店あったけ』と言われ、ますます小さくなりましたが、その後に『がんばられ!』と励まされました。神田横丁は『出世横丁』とも呼ばれていました。主人も私もそりゃあがんばりましたよ、そのうち、お客さんがだんだん応援してくださるようになって」
清作さんは世話好きで親分肌。商売もさることながら、「民謡」と「野球」という趣味がさらに人脈を広げた。三味線を独学で学び、おわらを愛し、名伯楽でもあり全国に通ずる弟子を何人も育てた。かたや野球は、自分のチームを二つも持ち、大の巨人ファンで王選手の後援会の副会長も務めた。今でも元巨人軍で富山に来ると必ずこのお店に寄るという選手も少なくない。
しかし清作さんは働き盛りの五十七歳でガンで他界。そのあとを富商の野球監督も務めた息子さんの進さん(六十歳)が引き継がれ、店の味を守りながら今に至る。
「とんかつを食べるなら、新とんかつに決めています。 子供のころ西町へ行った帰りは新とんかつで夕飯が決まりでした」
こんな書き込みがネットの食べ物ブログにあった。幼い頃の家族団らんの思い出と結びついている、新とんかつはまさにそんなお店のひとつ。
しかし昔を守るだけでは今の時代を生き残れない。新とんかつはシンプルで素材を味わうメニューが多い。専門店だからこそ素材にこだわり、自信があればこそのシンプルさだ。また、総曲輪店は十七代続いた古民家を移築したもので、壁には絵やタペストリーが。椅子やテーブルなど素人目にもいいものだということがわかる。食べるだけでなく、「時を過ごす場所」として意識された作りになっている。
店の伝統を守り、「今」そして「未来」につながる「町の食堂」として時代に合った店作りには、初代清作さん夫婦の意気込みが今も息づいている。

(税光詩子・記)

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天文屋のブログ

望遠鏡

夕方、仕事を終えて外に出る。ふと前方を見ると西の空に光る星。もう星が出ている時刻なのかと空を見上げるといつの間にか満天の星が。星空を目にして仕事の疲れが和らぎ、リフレッシュして家路を急ぐ。そんな経験がおありでないだろうか。もちろん人が作った光も私たちを楽しませてくれるけれど、星が与えてくれる「癒し」の力は何物にも替え難い。その星の明かりに魅せられたのが今回ご登場いただく吉尾賢治さん(南砺市在住)。
子どもの頃に星と出会って以来、夜空を見つめ続けてきた。二〇〇六年から自らのブログで毎日画像を更新し続ける。天文誌サイトへの投稿も数多く、TV局から掲載許可の問い合わせがあったことも。
例えばある日の写真は一面の星空。白い砂を撒いたような無数の星。同じ写真に星を結んだ星座図が下にあって(この日はぎょしゃ座とふたご座)、空に撒かれた無秩序な星が物語を作る星へと変わる。例えばある日は魚眼レンズでとらえた球形の星空。藍色の空を町の明かりが丸く縁取る。何でもない南砺の山里がロマンティックに姿を変える。ずっと見ていると今まで図鑑のなかでしか見たことのなかったような天文写真が身近に毎日アップされていることに驚かされる。
それが星の観察の世界のお約束なのかもしれないが、撮った場所、時間、使用カメラ、レンズなど掲載画像ごとに記載されている。機材はそれぞれ何種類にも及び、観察地も中部圏各地に広がっているのが分かる。星への並々ならぬ愛情がブログから溢れている。
興味を持つきっかけは何だったのですか。
「小学校高学年の夏休み、担任の先生が、毛布を持って学校へ来いとクラスのみんなを誘ってくれました。肉眼でも星がたくさん見えるのに驚いたんですが、一番強烈だったのは学校の望遠鏡で見せてもらった土星(の輪)ですね」
後日、一緒に星を見た仲間三人で福光の町へ組立て式の紙筒(製)望遠鏡を買いに行った。中学高校になると自分で望遠鏡を作った。以来、何度か都合で天文から離れた時期もあったが、星の観察を続けてきた。
時間のある限り、外に出て空を見る。自宅で星が見えない時はネットの天候サイトを見ながら撮影ポイントを探す。東海北陸自動車道全通により太平洋側に足を延ばしやすくなり冬場の星空観察も可能になった。撮影行を共にする愛車を拝見すると、前席を残し、後席はたたんで荷室になっていた。日々進歩の技術で、予め見たい星を指定すると、望遠鏡が自動的にその星をとらえ、追ってくれるらしい。撮影状況を時々チェックしながら、満天の星空を眺めて吉尾さんの休日の夜は過ぎていく。
撮影の拠点となるご自宅は、三方が山に囲まれた静かな佇まい。星座観察にはもってこいと思いきや、近年、冬の西の山肌には巨大な明かりが出現する。イオックス・アローザスキー場だ。照明灯は、スキー場を照らすための設備だが、中には、光軸が平野部を向いているのもある。その方が集客効果があるらしいが、巨大な光源は淡い星々の光をかすませる。観察を別にしても、あの煌々とした光が南砺の景観に合っているのか、再考の余地があるのではという思いがよぎる。
もっと入れ込みたいのでは、とお尋ねすると
「私は観察屋でも写真屋でもないただの天文屋です。天文現象はなるべく見逃したくないし、記録を残しておきたいだけ。星の写真展を開くなど考えたこともありません。自らに『毎日更新』の縛りをかけることで、天文ライフを生涯続ける、それが私の望む全てです」
冬の夜空のように冴え冴えとした返事だった。

(税光詩子・記)

◎吉尾さんのブログ
 「なんと!‐e星空」 http://stella.blog.nanto-e.com/

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狛犬が生まれた村

有峰村

「ぶさかわ」不細工だけどかわいいことを今どきの若者は愛情こめてこういうらしいが、八頭の狛犬の写真を見てその言葉を思い出した。実物に会うためにまだ雪深い旧大山町の山ふところを訪ねる。富山市との合併で「富山市大山歴史民俗資料館」となった建物の入り口で資料館学芸員の小林さんと寺崎さんが出迎えてくださった。
小林さんの案内で中に入っていくと展示会場の入り口で八頭が並んで出迎えてくれた。数奇な運命をたどった狛犬たちのストーリーは、湖の底に眠るかつての有峰をさらに神秘的に思わせる。展示館内には狛犬と並んでかつての有峰村の貴重な資料の数々が並ぶ。
米は育たず主食はヒエで、わずかな生産力で養える人口には限界があり、飢饉の度に乞食となって村を出ていったことなど、厳しい生活ぶりが説明されているが、案内してくださった小林さんが「確かに貧しい村でしたが、代表者が毎年伊勢に参拝していたんですよ」とおっしゃる。昔の旅は今と違い、庶民には手の届きにくいもののはず。極貧の村がどうして伊勢参りに人を送ることができたのか。
この資料館の展示を手がけられ、「有峰の記憶」(桂書房)を編纂された前富山県郷土史会長、前田英雄氏(八十三歳)のご自宅に伺いお話を伺った。
「信仰に篤いことは有峰村の特徴の一つです。つい最近、有峰村の伊勢参拝に関する新しい資料が見つかったんですよ」
一昨年、長(有峰村最後の長、丸山家の現在の姓)家の資料の中に、「伊勢朝熊岳」と書かれた七福神の絵図が見つかった。朝熊岳は「伊勢へ参らば朝熊を駆けよ朝熊駆けねば片参り」と言われた参宮のひとつということ。伊勢代参の村代表者二人は、片道八十里(三百二十キロメートル)の旅程を、通り道にある津島神社と白子観音に詣で、本宮参拝のほか、朝熊岳にも参拝していたらしいことがこの絵図から推察されるとのこと。つまりあちこちに寄ってのかなり充実したお伊勢参りだったことが窺えるようだ。食べるものさえ十分でない村がどのようにしてこの費用を捻出したのだろうか。有峰村の産業についてお尋ねする。
「換金作物としては蕨(わらび)粉があります。蕨の根っこから抽出したものですが、単に山から採ってきたわけでなく各々の家が日当たりのいいところにそれぞれ三十〜五十坪の畑を持って栽培していました。蕨粉の一升は米四升で交換できたんです」
「あと換金できるものとしては木呂(コロ)がありました。伐り出した木呂を谷に落とし、堰に溜め、一定量が溜まると流す。有峰の木呂は和田川から常願寺川を通りいたち川に流されました。明治維新後には富山市の人口は約四万五千人という大都市になっていました。炭は当時はまだまだ高価なもので、一般庶民にとって木呂はなくてはならない燃料でした」
現在の有峰ダムは貯水量二億トン、その水量と発電で富山市民の生活を支える。だが、この話を聞くと、ダムになる以前から有峰村は富山市民にとっての大切なエネルギーの源だったことがわかる。ずっと昔から、富山市という大都市を有峰という小さな村が支えてきたのだ。だがそんなことはほとんどの人は知らない。福島の原発事故があって初めて、東京のエネルギー源がそこにあったと気づかされるように、普段はあって当たり前でそれがどこにあるのか、どうやってあるのかまではなかなか思い至らない。山中の資料館はそのことを改めて教えてくれているようだ。
前田氏は今も地元のフィールドワークを進めておいでになり、地域史への飽くなき探求心は一向に衰えるところがなく、かくしゃくとした語り口は年齢を感じさせなかった。不勉強な聞き手に、根気強く説明を重ねてくださった前田氏に重ねて感謝申し上げたい。

(税光詩子・記)

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朗らかな桜守

野口営農組合長、山瀬悦朗さん 野口営農組合長山瀬悦朗さん

南砺市野口にあるエドヒガンの一本桜、通称「向野の桜」が今年も見頃を迎えた。エドヒガン特有の開花前の濃いピンク色、根本から株分かれした幹が描く美しい樹形、真下を流れる小川と雪が残る山々との取り合わせに魅了され毎年多くの人々が訪れる。
向野の桜から田を挟んで二百メートルほど離れたところに野口営農組合がある。桜の時期は農作業の始まりの時でもあり、組合の作業場には何人かの働く人の姿が見える。今日はこの中のお一人、野口営農組合長、山瀬悦朗さん(五十三歳)にお話を伺う。
山瀬さんは十年近く、自らのブログで向野の桜の開花情報を提供し続けていらっしゃる。見頃を待ちわびる多くの人が山瀬さんの開花情報を頼りにしている。
写真をお撮りになる時間は決まっているんですか?
「たいてい朝ご飯前の六時ぐらいですね。この時期は桜を見に来て一日が始まる、という感じね」
推定樹齢百二十年以上と言われている向野の桜だが有名になったのは割に最近のこと。地元の方はこの樹の存在をご存じだったのだろうか。
「僕も若い頃はまったく知らなかった。昭和五十四年に桜の木の傍にスーパー農道が通って見物人やカメラマンが集まるようになってね。年々、見に来る人が想像以上に増えてきて、野口地区でもおいでになった皆さんがもっと桜を楽しめるようにと考えるようになってきて」
そのひとつが桜のライトアップ。意向を受けた地元の企業が十数年前に投光器と水銀灯を設置。幻想的な夜桜を楽しめると好評で、以来、企業のライトアップボランティアはずっと続いている。
田の水張りもそのひとつ。「逆さ富士」ならぬ「逆さ桜」が水面に美しい姿を見せる。田んぼに水を張るようになったのはいつ頃からですか?
「もう五、六年になるかな。自然発生的にやろうって声が出てきて。持ち主の方にも了解をもらって他の田んぼより早くトラクターで田起こしをして水を張る。最近では見に来る人もよく心得ていて逆さ桜が見られるポイントをよく知っておいでるね。昼間は風で水面が波立つので、風がない朝と夕方が逆さ桜のシャッターチャンス」
今後について何かお考えなんでしょうか。
「この桜が他と違うところは、周りにひとつも人工建造物がない一本桜だということ。スーパー農道から眺めると袴腰山系の山々と桜が自然なままに風景になる、それがこの桜のいいところなんであって、そこは大事にしたいので柵や看板を作ったりということは敢えて考えないですね」
山瀬さんは「地域の面白いこと」をやりたいと十二年前に会社勤めを辞め、地域に正面から向き合うことに。活動の柱のひとつに「農」を据え、六年前から野口営農組合長を務める。数年前から休耕田にコスモスや蕎麦を植えるようになり、花の時期はコスモス摘み放題。これもだんだんと人の知るところになりつつあり、野口は春にも秋にも花で楽しめる地域だ。
「戦前は、この桜の木だけでなく何本か並んでいたけど、他の木は薪用に切り倒されてしまい残ったのはこの一本だけ。どうしてこの一本が切られなかったかというと、切り倒しても川に幹が落ちてしまうので拾うのが面倒だから、ということらしい。それが今はこれほど人を集めているんだから面白いもんですね。崖っぷちに懸命に根を張っているこの桜は美しいだけでなく健気でもあり、見ていると励まされる気もするんですよ。ずっと見守っていきたいと思います」
逆さ桜を撮ろうと営農組合の道路前に車を停めカメラを持つ人に、どっから来たんですかと、山瀬さんが気さくに声をかける。笑顔と温かな言葉が道路を挟んで行き交う。桜日和に今日も山瀬さんの農作業は続く。

(税光詩子・記)

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山奥の水車

橋本順子さん 農業法人有限会社 土遊野橋本順子さん

電気自動車が珍しい時代ではない。CMもどんどん流れているし時々は実際に見かけもする。だが今日ご紹介するのはただの電気自動車ではない。小水力発電を電源とするさらに進化したミニバンだ。
お訪ねしたのは旧大沢野町の山中。市街地から車で十分だが車一台がやっとの山道がしばらく続くので、峠を越えて水田がパッと広がった時には別の世界に踏み込んだような感がある。更に谷沿いを行くと二階家ほどの高さがある金属製の大きな水車が目に入ってきた。晴天が続いたせいか、残念ながら水車は動いていない。ご自宅にお邪魔し、車の主、橋本順子さん(五十七歳)にお話を伺う。
橋本さんは農業法人㈲土遊野を営む有機農業家。鶏舎を走り回る平飼いのニワトリの映像はとやまの人なら一度は目にしているはず。昨年には娘のめぐみさんが東京からUターン。若き農業後継者の取材にNHKの番組で訪れた嵐の櫻井翔さんが土遊野の人、土地、すべてに感動していた映像も記憶に新しい。
話もそこそこに、件の電気自動車三菱ミーブで土遊野を案内していただく。音も静かで山中の急な坂道もすいすい登る。谷あいに例の鶏舎が見えてくる。合わせて千羽以上の大所帯。映像で見るより更に元気がいい。アイガモ農法の圃場、何段にも並ぶ棚田、規模の大きさに驚かされるが、橋本さんご家族の他に今は七人の若者が作業を共にする。棚田の頂上付近からは富山市から立山連峰まで一望できる眺めの良さ。遊び心ふんだんな手作りの施設もあり、農場というより王国と呼びたくなるくらいだ。
飼料や肥料を輸入に頼らず、ニワトリを自前のエサで育て、フンは田や畑に撒いて肥料に。循環型の自立した農業に取り組んできた橋本さんにとってエネルギーの自給は長年の念願だったとのこと。県の小水力発電協議会に参加していたことから国の補助事業に応募し採用される。四百メートル離れた堰堤からの配水管工事は、補助金内に収めるため研究プロジェクトチームで手がけたとのこと。水車横の作業小屋には十個のバッテリーがずらっと並び、発電された電気を蓄電する。二つの水車で毎時一・四キロワットの発電は、自宅の冷蔵庫、こたつ、大型テレビ、LED照明器具、パソコン三台を稼働させる。更に夜間は電気自動車の充電に。十時間の充電で約百キロの走行が可能になり、富山市街地への平飼い卵や有機野菜の配達におおいに利用されている。
生活の水も全て自前である。
「取水口が塞がって水が来ないときもあります。冬場はカンジキをはいて見に行きますよ。枯れ葉や時にはサンショウウオのような小動物の死骸が詰まっていたりして取り除きます。どんなシステムにも完璧はないしそれなりにメンテナンスは必要ですね」
大変な作業のはずだが、橋本さんがおっしゃると何でもない作業のように聞こえてしまうから不思議だ。
「バッテリーの電気量がなくなると、すーっと電気が消えていくんです。電気の量が見えるんですよ。電気にしろ水にしろ限りがあるものだとよくわかります。ですから、今まで以上に大切に使おうと思うようになり省エネ意識は高くなりました」
今度は、更に太陽光発電パネルの設置を予定する。
「どちらも、あくまでも有畜複合循環型農業の一環としてとらえてほしいですね」
福島の原発事故以来、にわかに脚光を浴びる小水力発電。だがずっと以前から循環エネルギーへの挑戦を続けてきた橋本さんは今の流れをどう見るか。
「反対反対とシュプレヒコールをあげるだけじゃなく、実践していかないとね。ちょっとずつね」
晴天で止まっている水車だが、話を伺ったあとで再び見上げたときには、時代を動かしに、ギギギと音を立てて回り出したような、気がした。

(税光詩子・記)

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隣家の作法

江川吉夫さん 江川吉夫さん

何とか雨をこらえる梅雨空の下、道の駅福光、なんと一福茶屋では緑色のTシャツに、頭のてっぺんには黄色のお皿が付いた緑色の被りものをかぶった地域の世話役面々が神妙な面持ちで整列する姿がある。「だまし川のほたるとかっぱ村祭り」のオープニング、かっぱ供養祭でのひとコマ。供養塔に水をかけ、かっぱの使いとされるナマズに御神酒を飲ませてだまし川に放流するなど、神事(?)をうやうやしく世話するのは江川吉夫さん(六十四歳)。今年五度目となるかっぱづくしの祭りを終日、陰に日向に見守り続けた。
数年前、道の駅で、だまし川のかっぱを活かしたイベントを考えていると聞いた江川さんは、頼まれる先に駒ヶ根や焼津のかっぱ専門館に見学に出向く。ユーモラスなかっぱの被り物を見つけ、道の駅の支配人にこんなのがあったよと報告して以来、イベントの協力が続いている。「だまし川のかっぱ」は江川さんにとって特別な存在だ。
「瞞着川」と棟方志功が名付けた川は、元々は豆黒の田んぼと呼ばれる地区を流れる何ということのない小川だ。志功はこの小川と村人から聞いたかっぱ伝説を愛し、「瞞着川板画巻」三十四柵を発表した。「瞞着川板画巻」に出てくる「吉千代右衛門(キッチョウエモン)」は江川家の屋号でありこの中に出てくるアネマは江川さんのお母さん(故江川ソトエさん)、負ぶっていた子どもは吉夫さんがモデルと言われている。
棟方家が東京から疎開した最初の住まいは江川さん宅のすぐ南隣だった。
「父親(故江川作蔵さん)は当初は、鍬も持てない芸術家がこの地に来ることに渋い顔をしていたらしいです。しかし実際に棟方一家が越してくると、子どもの数や年齢が似ていることもあって、チヤさんと母が仲良くなり、何かと手助けをするようになったようです」
棟方一家が町屋へ越したあとも家族ぐるみの付き合いは続いた。江川家には百通を超える棟方からの手紙やハガキがきれいにスクラップされて残る。福光時代の便所のくみ取りを頼むハガキから、東京からの正月用の餅を送った折の礼状など、細やかな互いの行き来が記されている。ヨーロッパ、アメリカ講演旅行先から届いた絵ハガキが数多くあり、どこに足を運んでもまず江川家に一筆したためていたのではないか。
福光での七年近くの暮らしは決していいことばかりではなかったと、書き残したものからも窺えるようだが、その中でこの一家との付き合いがいかに棟方にとってかけがえのないものであったか、これらの文が如実に物語る。
かっぱの話について、江川さんはこう想像する。
「豆黒の川の橋の傍にうちの田んぼがありました、傍らには豆黒の川の深く澱んだ淵がありナマズが潜み、その辺りをネコヤナギが両側を覆っていました。父母の時代は少しの時間も惜しみ弁当を持って田んぼに行きました。志功さんが町へ出かけるときは必ずこの道を通ったはずで、昔は田仕事の途中に、手を止めてまで話をすることはなかったと思いますが、昼休みの時など志功さんが通ったときにはこの川のかっぱ伝説やナマズのことなど話をしたのではないでしょうかね」
お母さんから聞いたこととして吉夫さんがよく覚えていることがある。
「棟方さんのことを、絵を描くからサカナをくれ、あれをくれと言う、と言う人がいるけど、そんながでないがいぞ(そんな人でないぞ)」
口さがない噂に耳を貸さず、棟方の人柄を信じる隣人があってこそ、瞞着川の名作が生まれ得たのかもしれない。後年の棟方の名声にも振り回されることなく、隣家としての付き合いを守り通した江川家の誇りを吉夫さんは静かに受け継ぐ。
旅の人の憩いの場となる道の駅のイベントに、旅の人、棟方一家を受け入れた江川家の吉夫さんが関わることになったのは必然なのかもしれない。

(税光詩子・記)

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制服の写真

伊藤敏博さん 国鉄マン時代の伊藤敏博さん 
伊藤敏博さん ※写真 右・青春切符そのものの時代。

今回のゲストは元国鉄マンで歌手の伊藤敏博さん(五十六歳)と連絡が。ヤマハポプコンに「サヨナラ模様」で優勝したあの伊藤敏博だよね。「ねえねえねえねえ抱いてよ〜」のサビの部分の透明で甘い歌声が甦る。七十万枚の大ヒットで一世を風靡し、現在も富山で歌手活動を続けていらっしゃる伊藤さん。世代的にドンピシャとはまる私は、ファン目線が取材の邪魔になるのでは、国鉄時代の話はイヤというほど聞かれて飽き飽きした話題でないか、などとドキドキと心配を抱えつつ事務所のドアをたたいた。
事務所に入ってすぐ、壁にかかる国鉄時代の写真が目に入ってきた。深緑の制服に銀色のボタン、腕には「乗客専務」の赤い腕章が。春先なのだろうか、駅構内の建物脇のチューリップの傍らに座り、逆光を少しまばゆそうに微笑む伊藤さん。あの頃長髪の国鉄マンと騒がれたが、今見るとそれほどでもない。同行カメラマンの風間氏が「いい写真だなあ」と呟く。
フランクに迎えてくださった伊藤さん。早速話を伺う。
高校卒業後、国鉄入りし地元の親不知駅で二年間の勤務の後、車掌資格試験に合格し富山へ配属。後の六年間を氷見線、城端線をはじめ富山県内のローカル線六線を車掌として乗務する。
城端線と氷見線の違いはありましたか。
「高岡を起点にして山の人と海の人の違いがはっきりとわかるんです。城端の方に向かっていくと人が穏やかになって動きもゆっくりになる。逆に氷見線になると動きがあせくらしくなってぶっきらぼうなタメ口口調になるのがおもしろい。氷見線は区間が短く城端線は長い。そういう影響もあるかもしれませんね」
国鉄退職後、ふるさと親不知でも東京でもなく、活動の場所を富山に据えて三十年近い伊藤さんの話し言葉のイントネーションは、語尾が波打つ富山弁が染み込んでいて、富山県人の私の耳に心地よい。
伊藤さんから見た好きな風景はありましたか。
「朝もやですね。田植え時期になると田んぼに水を張る。すると早朝の電車に乗ると散居村一面に広がる朝もやが見られるんです。幻想的でなんともいえない景色でしたね。田んぼの水張りで春の暖かさが引き締められて冷え込むんです。一枚羽織りたくなる。体全体で感じるんです」
車掌さんというのは接客業ですよね。
「僕はローカル線の車掌と言えども、スチュワーデスと同じぐらいの感覚を持たないとダメだ、サービス精神を持って当たり前だと思ってやってました。だから、高校野球のシーズンには甲子園の地元校の状況を、事前にお願いして駅で教えてもらって『今何対何です』なんて車内放送をしました。そんなことやってるのは僕だけでしたけどね」
「いわゆるキセルを見つけて電車を降りて走っていった高校生を走って追いかけたこともあります。列車の中から『伊藤くん、がんばってー』って応援の声が飛んできて。全力で走りましたよ」
当時の国鉄は経営悪化から民営化が議論されるなど暗い話題ばかりの中、伊藤さんの大ヒットは大きく貢献、東京丸の内の本社で表彰を受け、経済効果は当時の金額で四億円と言われた。
もう一度壁に目をやる。伊藤さんがこの業務をいかに愛し、また国鉄に愛されたかを物語る制服姿の写真。
「車掌の仕事っていうのはお客さんの旅のご案内、お手伝いをする仕事ですよね。僕が今やってるコンサートはお客さんの人生の旅の道案内、お手伝いだと思っているんです。コンサートに来たらそれを感じて帰ってもらえるとうれしいですね」
透明な歌声は変わらない。九月には富山市内でコンサートが開かれる。人生の色々な路線を乗り継いできた伊藤さんの歌をもっと聴きたくなった。

(税光詩子・記)

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語らぬ名人

小泉忠志さん小泉忠志さん

うっかりすると通り過ぎてしまう静かな外観の南砺バットミュージアムだが、一歩足を踏み入れると別世界が広がる。入ってすぐに衣料品店の名残りがあるらせん階段が二階へとつながっていて、開放的な空間が良い。中二階、二階とずらっと並ぶバットが壮観だ。一本一本に付けられたタグを見ると野球ファンでなくとも知っている往年の名選手の名前が次から次へと続く。タグを見ているだけで野球場の喧騒が耳に甦るようだ。今日八月九日は奇しくも野球の日で入場料は一割引、明日もバット(八月十日)の日で一割引とのこと。館長の嶋さんの楽しい計らいだ。
その嶋さんが「バット作りの名人」と敬意を込めておっしゃるのが今日話を伺う小泉忠志さん(七十四歳)。「バットの街・福光」と呼ばれる源流を作り上げた波多製作所に中学卒業と共に入社。プロ選手用のバットを担当し、若い頃から波多製作所の職人として野球界の大物のバットを手がけてきた。掛布、岡田、原、落合、福本、立浪、数え上げるとキリがない。プロ野球の名勝負の数々を小泉さんのバットが演出してきた。
インタビューを気遣い、今までに取材を受けられた写真や新聞記事をご持参くださる。穏やかな雰囲気の小泉さんだが、バットに刃物を当てる横顔や、握りを確かめる新聞切り抜きの中の若かりし頃の眼差しは、射るように鋭い。写真の横には「自他共にゆるす手ぐりの名人」「手作業で微調整できる数少ないバット作りの職人」「紙一枚分の狂い許されぬ」などの文字が並ぶ。
今は多くが機械化されているが、入社当時は殆ど手作業、バット作りは、まず、乾燥室に入れる前の粗刳りから始まったという。
「その頃は人もたくさんだし一日何本とか競争してしとったちゃね。削る屑がどれだけ遠くに飛ぶか、そんなことも競争したりしてね」
粗刳りから少年用、中学生用、大人用と進み、昭和四十五年頃からプロ野球選手のバットを専門に仕上げるようになる。
各選手のバットのサンプルが送られてきて、それと同じ太さ、型、同じ重量に仕上げる。当然選手によって形が違う。
「材料がバラバラなもんでね。直接握るところを削ってしまうと持った感じですぐ選手にわかるから触れません。ここ(グリップから打球部へとふくらんでいくところ)でコンマ一(〇・一ミリメートル)ほど削ったら五グラムほど落ちる。そうやって調整したですね」
高速回転で廻るバットに刃物を当ててミリ以下の単位で調整する。緊張を強いられる作業の連続だ。
一方で、素材を選び出す作業も大変だったという。千本送られてきても、節や歪みで半分はまずダメ。当時から北海道産のアオダモは品不足で、限られた中で選手用の十本を選び出す作業はいつも苦労が多かったようだ。
「掛布さんの注文でどうあっても仕上げんなんという時があってね。乾燥が間に合わずに乾燥室の中で探しました。なかなかその十本が見つからずに、一時間ほど蓋を閉めて五十度の中にいたものだから、気がついたときは喉がひりひりと痛んでね。医者に通いましたよ。まあそんなことは一回やったけどね」
注文の難しい選手はいましたか?
「みんな難しかったね。簡単な人はおいでません」
思い出深い出来事は何ですか?
「そうやね、落合選手の三冠王かね。二年続けてでなかったかね」
作業工程以外の質問になると答えが短くなる。三冠王のバットを作ったという偉業にも特に力を込めるでなく、淡々と声の調子は変わらない。
「特別上手なこともなかったがで」
名人と言われる職人の奢ることのない言葉は、だからこそ、胸に残る。

(税光詩子・記)

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くろワンきっぷと共に

菅野寛二さん菅野寛二さん

地方鉄道の話題があちこちで盛り上がっている。新幹線の影響はあるだろうが、もともと富山県は地方鉄道の宝庫らしい。クールな富山市のライトレールは全国区だし、赤がおしゃれな万葉線も負けていない。だが、今日ご紹介するのは温い電車の話。通称「くろワン」。犬の鳴き声のようなこの企画の正式名称は「黒部ワンコイン・フリーきっぷ楽駅停車の旅」。富山地方鉄道の黒部市内にある電鉄石田駅から宇奈月温泉駅までの十五の駅がワンコイン、五百円で一日自由に乗り放題になる企画だ。
お話を伺うのは菅野寛二さん(六十二歳)。「釣りバカ日誌」の映画ロケを誘致するなど、ずっと黒部のまちづくりの中心に。くろワン企画は菅野さんが新幹線市民ワークショップの座長を務めていた平成十九年に誕生。春と秋の行楽シーズンの土日祝日に限定して開催され、今年の秋は十二回目のシーズンとなる。
ひと足早く先にいた私たちの前に風を切るような早足で菅野さんは現れた。聞けば、ここに来る前に今秋のくろワンの案内に市内の十六の保育所全てを回ってきたとのこと。出発式には、鉄道唱歌を市内十五駅を織り込んだ替え歌にして地元保育園の子どもたちが歌う。
「今日は小学校までは回れなかったんですが、時間がある限りは保育所も小学校も回ります。顔つなぎが大事なんですよ」
早口で早足で、まずは動く。動いてつなぐ。その行動力とつなぎ力がくろワンをひっぱっているようだ。
「一回目の時は、すべての駅に女房と二人で幟を立てて回りましたよ。イベントも当初は頼んだ参加者の方が多かったくらいでした。活動を続けられたのは、そうやって支えてくれる人たちがあってこそです」
回数を重ねる毎に市や地鉄からの協力が得られるようになり、地域に浸透していくのを肌で感じたという。口コミで広がって個別での購入も増えてきた。
「あの人が、と思うような人が、孫にせがまれて、とか言って乗ってきてくれたり。運転手さんが運転席からあいさつしてくれるようになったりしてね」
くろワンの特徴は、降りて楽しむ、ところにある。ワークショップメンバーが知恵を絞り、地元ならではの幅広いまち歩きメニューが生まれた。「秋咲きの桜観桜会」は十カ月の間桜が咲く桜の町、黒部ならでは。「黒部古道『山街道』ツアー」、「とちの森遊歩道散策とトチの実工作」など地元ガイドの案内が好評ですっかり定着した。
土日祝日は電車に自転車を持ち込めるのでそれを活かした電車とサイクリングを組み合わせたイベントは周知が進み、近ごろ人気のコース。
市内の沿線駅は間隔が短い。ひと駅は軽く歩ける。そしてどの駅舎も昭和ど真ん中の味わいを残す。中途半端でない。トトロの世界がそのまま残る。くろワンが発端で駅舎を守る地域の取り組みが生まれ、外壁を塗り替えるなどの整備も進み、駅舎には清潔感がある。多くの駅を乗り降りするまち歩き企画は最大限にこの路線の魅力を引き出している。
新たな動きも生まれてきた。電鉄石田駅付近にある加賀藩の蔵がまち歩きで知られるようになり、持ち主が訪れる人のためにトイレを整備してくれた。さらに蔵でのコンサートや企画展など広がりを見せる。
「僕らが子どもの頃は、親と一緒に地鉄に乗って、富山の大和に行って、屋上で遊んで、お子様ランチを食べるのが、年に数回あるかないかの楽しみでした。思い出に地鉄がしっかり絡んでいます。今の子どもたちにも『本物』の電車に乗ってもらって、思い出を作ってほしいですね」
今度の秋で利用者は通算三万人を超える予定だ。最新鋭の車体はないけれど、市民の汗と知恵によってくろワン電車は走る。ゆっくりしっかり、進めくろワン。

(税光詩子・記)

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「くろよん」を語り継ぐ

奥野義雄さん元関西電力社員:奥野義雄さん

■黒四と環境
十月初旬、テレビに映し出される県内の紅葉の始まりは、立山黒部アルペンルートと黒部ダムと決まっている。山々と調和し、紅葉に映える美しいダムと放水は県を代表する絶景のひとつだ。
この黒部ダムも完成して来年ですでに五十年とのこと。世紀の大事業は数々のドラマになり、日本の経済成長のシンボルとして日本人を励まし続けてきた。
黒四伝説の語り部として、その心を伝え続ける元関西電力社員奥野義雄さん(八十九歳)にお話を伺う。学徒動員を経て、関西電力に入社、工事完成までの七年間を現場で過ごし、土木技術者として工事の役所関係の許認可申請に関わり、監督官庁との折衝を一手に引き受けてきたキイパーソンのお一人だ。
「あの当時でも環境にはずいぶん気を遣いました。建設地は中部山岳国立公園の中ですからね。草一本抜くのにも申請書が必要だったんです」
発電所、変電所などの主要設備を地下式にし、掘削土砂はすべて観光客の目にふれない場所に運搬された。許可条件に、ダムからの観光放水があり、工事用道路があった。工事用道路はその後、国立公園の歩道として利用され、維持管理はそれ以来関電がずっと継続している。景観を損なわない最大限の努力が払われ、自然と人工物が調和した新たな美を生み出した。
「これだけの大工事をしながら、黒部の自然、風光が毀損されていないのはすごい」「日本人を見直す気になった」ダム竣工前年に、大佛次郎、川端康成をはじめとした鎌倉文化人六人が黒四を訪れた時の感嘆と賞賛の声は、案内役を務めた奥野さんの耳に今も残る。

■三十六メートルの攻防
関西電力の当時の資本金は百三十五億円、三百七十億円のダム総工費(最終総工費は五百十三億円)は社運を懸けた決断だったが、そのために、世界銀行からの三千七百万ドル(百三十三億二千万円)の融資に成功したことも特筆すべきことと奥野さんは語る。
世界銀行は全世界の大きなプロジェクトに融資し、それぞれの専門分野に権威者を揃えていた。昭和三十五年五月、同銀行技術権威者達が黒部ダムの現地視察に訪れる。前年、同様に融資したフランスのマルパッセダムが崩壊し多数の死者を出したことから、黒部ダムの高さ百八十六メートルの強度を検証するためだ。視察を終えた顧問団は、強度の不安からダムの高さを百五十メートルに下げるよう提案する。高さを下げたくないが、世界銀行へ答えを持っていく為の猶予は三カ月しかない。
「岩盤テストの機械がフランスにしかなかったのですが、通常の手続きだと六カ月かかるところを、副社長の英断で、当時としては異例ですが、飛行機をチャーターし取り寄せることになったのです」
取り寄せた機械での岩盤テストで強度が再評価され、その結果を引っ提げ、ワシントン本店での会議に平井寛一郎副社長をはじめとした三人が臨んだ。
「副社長のスピーチは英語で行われました。『関西電力は黒部ダムを計画通りの高さで作り上げる案を携行しました。世界銀行と言えども銀行に違いなく、計画水位を低くして発電所の採算が悪くなり、それだけ借入金返済の困難が増えるような勧告をお出しになるのは筋がおかしいのではないでしょうか。如何にすればダムの高さを下げずに済むかについて権威者の皆様からお知恵を賜るのが本来の姿であり、そうして頂ければ幸い、これに優るものはございません』並み居る諸公が一斉に席を立ち、拍手でこの演説を迎え入れ、かつそれに沿った議決が行われたのです」
「何よりも、日本経済復興のためのエネルギーを必要としていたので、高さを死守したことは国家的にも偉業と言えるでしょう」
定年後、依頼を受け黒四の歴史を本にまとめたことからその内容が注目され、講演依頼が舞い込む。平成十一年以来講演回数は七十回を超える。年号や数字を紛うことなくお話しになる矍鑠とした姿は、年をとることをずっと以前にお忘れになったかのようだ。
くろよんを語り継ぐ為の天の采配なのだろう。

(税光詩子・記)

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