富山写真語 聞き書き万華鏡

相手の意

北本亮一さん(高岡フィルムコミッション事務局) 高岡フィルムコミッション事務局北本亮一さん

活字離れとはいわれるが、むしろメールで気軽に発信することに慣れた若い作家が、続々と誕生している。
映画の世界でも、ドラマをつくりたい、ドキュメンタリーを撮りたいと、夢にチャレンジする若者がふえてきているようだ。何千万円、何億円という巨額な制作費を投入しなくても映画を作れる環境や、光るものは評価される環境が、醸成されてきたからだろう。
全国に百四十団体を超えるフィルムコミッションが、映画やドラマのロケを身近なものにし、地域を見なおす環境づくりに大きく貢献している。
JR高岡駅二階にある高岡市観光協会に、「高岡フィルムコミッション」の北本亮一さん(四十歳、高岡市)を訪ねた。
北本さんは東京の大学を卒業後、テレビ番組などの制作会社で二年間、照明担当として働いた。その後、高岡に帰り、平成八年、高岡市観光協会職員となる。
「はじめの頃は、映画とか撮影とか、全然念頭になかったですね。数年経った頃から、アメリカ南部で西部劇などを撮る際に、ロケ隊の宿泊から移動や撮影地の手配などを一手に引き受けて、これがメジャーな産業になっているという話が伝わってきまして。日本でも、映画やドラマづくりが首都圏の撮影所から地方にも出始めた頃だったんで、よし、やろうと、話が一気に進みました」
平成十三年三月、高岡市長をはじめ、商工会議所、観光協会、ホテル旅館組合、伝統工芸高岡銅器組合や漆器組合、青年会議所や観光ボランティアガイドなどの代表者が名を連ね、「高岡フィルムコミッション」が立ち上がった。日本では五番目に早い設立という
映画に限らず、テレビドラマや番組、コマーシャルなどのロケーションを誘致し、スムーズに撮影が進められる体制を整えることで、高岡市の知名度アップと交流人口の増加、経済効果を期待してのことである。
設立後最初の仕事は、日本テレビの火曜サスペンス劇場「地方記者・立花陽介」。金屋町や大仏、瑞龍寺、雨晴海岸など、高岡の代表的な観光スポットがロケ地になった。翌十四年には、NHK大河ドラマ「利家とまつ」でも高岡の紹介がされるなど、順調な滑り出しだった。
「最初につくったパンフレットがこれです」
北本さんが開いてみせたのは、高岡の代表的な建造物や景観、伝統産業や祭りなどを網羅した立派な「観光パンフレット」である。
「これをもって撮影所などへロケ誘致に回りましたが、鼻にもかけられません。違うんですよ。全国約千七百も自治体がある中で、北陸の高岡まできてくれるのは、少ないです。こちらの思いではなく、相手の要望にかなうよう、最善を尽くすことが大事なんです」
サスペンスやミステリー、◯◯殺人事件といったドラマが続いた。
「もっと、旅番組呼んで来いま!」と、げきが飛ぶ。
観光第一、イメージアップが求められる中で、時には撮影スタッフの一員のように意識する北本さんには、ジレンマの日々が続く。
「実際に撮影にまでこぎ着けるのはほんの一部で、その五倍以上のオファーがあります。問い合わせにすぐに対応できないと、他へもっていかれてしまいます。こちらの提案に、いいねェと乗ってきてくれても、暴力シーンはダメとか、せっかく昭和初期の最適な建物なのに、取り壊し予定だからダメとか、受け入れ体制が取れなくて、残念な結果に終わったこともあります」
大掛かりなロケが実現すると、宿泊や弁当、飲食、夜間照明やレッカー車など、地元への経済効果だけでなく、多くの市民エキストラが、わくわくしながら映画づくりに参加する。地元マスコミが報道すれば、いっそう盛り上がる。
「とにかく露出を多くしていきたい。イメージアップは結果的についてくるものです。より密度の濃い仕事をと考えているのですが、機動力がなかなかついていかない」
と、孤軍奮闘の北本さんは、悩みを打ち明ける。地元に詳しい人材ネットワークを広げ、束ねる、ワンストップ・コーディネートが求められている。

[談・北本亮一(高岡フィルムコミッション事務局)文・本田恭子]

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とある歴史証言

吉尾外吉さん(元立野ヶ原陸軍演習廠舍居住) 子供の頃の吉尾外吉さん 元立野ヶ原陸軍演習廠舍居住吉尾外吉さん

梅雨の晴れ間の午前十時、気温はうなぎ上りだ。ゆっくりとせり上がっていく道路の両側に、水田と柿畑が、なだらかな段をなして続く。南砺市福光から城端にかけての広大な台地、小矢部川右岸一帯に広がる「立野ヶ原」の一角に、このほど発見された写真の“少年”、吉尾外吉さん(八十五歳、南砺市)をお訪ねした。
「わしが住んどった家は、すぐそこのホラあの家ですわ」と、水田の先を指差す。その家から目と鼻の先のこの家に、請われて養子縁組を結び、終戦後結婚した妻とともに、移ってきたのだという。義母に当たる人は、既に数週間前に亡くなっていた。以来、義父を助け、田畑を耕して子を育て、今日の吉尾外吉さんがある。
扇風機を回し、冷たいお茶を進めながら、外吉さんは思いがけず手にした懐かしい写真を前に、ポツポツと子どもの頃のことを話しはじめた。
外吉さんの実父山本理兵衛さんは、伍長として兵役を務めた後、立野ヶ原陸軍演習廠舎の管理人として廠舎敷地内の官舎に家族とともに住み、建築物の修理や冬期の雪下ろしなど、廠舎全体の管理に携わっていた。元大工でもあり、頼りにされていたという。
「現在の城端中学校の門は、昔の炊事場辺りかねぇ。昔は、門から少し下がったところに将校の官舎があって、その隣にわしらの住宅がありました。井戸が今も残っとるね。いっしょに写真に写っとるこの子は近所の外茂二や。二、三人で鬼ごっこなどして、よくいっしょに遊んどった」
と、外吉さんは当時を思い出すように目を細める。
外吉さんは大正十四年生まれ。男三人、女一人の四人きょうだいの二番目である。昭和五年、五歳の頃から、十五歳で親元を離れるまで、廠舎周辺が外吉さんの生活の場であった。
「兵隊が演習に来るのは夏場だけ。雪が解けて四月頃から秋の十月頃までだねぇ。金沢の第七連隊、鯖江の三十六連隊、敦賀の十九連隊……。富山からも十二里の道を歩いて、途中で一服して兵舎に入った。落伍する人もあったそうや。金沢からは金沢往来、昔の殿様道を歩いてきた。高宮辺りで休んでから、兵舎に入った。兵舎は上手に四棟、下手に六棟あって、真ん中に幹部舎があった。西側に厩があって、兵士は演習から帰ったら、真っ先に馬の手入れをしていましたね」
小学校四年生くらいになると、学校帰りを待って仕事をさせられた。どこの家でも、当時は当たり前だった。
廠舎の門のすぐ前に、店が二軒あった。菓子やたばこなどを売り、注文を取って、当時は珍しい洋食を作っていた。外吉さんは、この店の手伝いをしていた。
「学校から帰ったら、兵舎の中へサイダー、がや豆などの菓子を売りに行った。それから将校宿舎へ、オムレツ、カツレツなどの注文取りに行きました。そんなハイカラな食べ物を知ったのは初めてでした。兵士たちが食べるのは廠舎内のうどん屋、餅屋です。酒保と言って酒屋もあって、これが演習帰りの兵士の楽しみだった」
二十日間ほどの滞在期間中、兵士たちは近くの山田川で洗濯をし、兵舎に干した。蚊帳を持ち出し、網代わりにして魚捕りをする者もいたという。もちろん、蚊帳は破れて、使い物にならなくなった。
厩でも、エピソードが生まれた。兵士が将校の大事な馬を手入れ中、うっかり放してしまい、金沢の連隊から「馬がかえってきたぞー」と連絡が入ったという。水飲み場に足を入れて骨折した馬が、軍用トラックに乗せられ、帰されたこともあった。
近所の人たちはせっせと土手の草刈りをし、干し草にした。保存しておき、売るためである。監視の目をくぐってタマ拾いもした。
昭和十九年五月、外吉さんは志願して海軍に入隊。兄はスマトラへ出征し、弟は航空隊へ。いずれも、廠舎の前から旅立った。
まもなく終戦。兄は無事に帰還し、閉鎖された陸軍演習場あとに結成された開拓団に入り、家族とともに入植した。その後、外吉さんは結婚し、近くの家に養子に出る。
忙しくて、久しく跡地を見に行くこともなかったが、
「ここにおったがやけど、まるで変わってしもた」
城端中学校の前に立った外吉さんの感慨はひとしおである。立野ヶ原演習場があったことを、歴史として伝えてほしいと、吉尾さんは願う。

[談・吉尾外吉(元立野ヶ原陸軍演習廠舍居住)文・本田恭子]

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過程が誇り

入道忠靖さん(「砺波に疎開した大澤雅休展」実行委員長) 「砺波に疎開した大澤雅休展」実行委員長入道忠靖さん

また、あの暑い夏がやってくる。東京をはじめ全国の都市が次々と空襲に焼かれ、長崎、広島への原爆投下で終戦に至った昭和二十年八月十五日。疎開先でこの日を迎えた子どもたちは、既に七十歳代後半の年齢となった。
「太田村史」(現・砺波市太田)に、当時の太田国民学校に学童疎開していた東京都渋谷区大和田国民学校六年の児童が、二十年後、同級生だった地元の入道忠靖さんに宛てて思い出を綴った文章が、掲載されている。家族と別れて眠れなかった夜行列車のこと、太田村の印象、宿舎となったお寺での生活、旺盛な食欲、シラミ騒動、オチョーハイ(村の家での一泊招待)、吹雪をついての馬鈴薯調達……等々、つらかったことや楽しかったことがあれこれ綴られ、「よい経験となったが、このような事態が私達の子どもの上に襲いかからぬ世界をつくらねば」と、結ばれている。
「太田村史」はまた、学童疎開の引率教員として派遣された書家大澤雅休が、地域に及ぼした文化的な影響の大きさについても、記している。
雅休がしばしば訪れていたという、当時の村長、入道忠昭氏の子息、入道忠靖さん(七十七歳、砺波市)に、記憶に残る大澤雅休について、お聞きした。入道家は、砺波地方の典型的なアズマダチ民家としても有名で、富山県指定有形文化財となっている。見事なワクノウチの広間で、昭子夫人ともどもお話を伺った。
「いろりの縁にどっかと座り、里芋の田楽をうまそうに食べていましたね。おやじ、おふくろと一日中でも話していましたよ。おやじは俳句や漢詩も作ったりしていたので、歌人でもあった大澤先生に推敲してもらっていたようです」
小学生の忠靖さんの目に映った大澤雅休は、平然と慌てず、ゆったりした人物だったらしい。
「いろりの前であぐらかいて、いつも前がはだけているもんで、目のやり場に困ったのを覚えています。火の粉が飛んでも、悠々として払わず、話し方も慌てずでしたね」
大澤雅休は明治二十三年(一八九〇)、群馬県高崎市の生まれ。若い頃は俳句、短歌に没頭し、自らも「野菊短歌会」を作り、文学に打ち込む。その後、生涯の師となる比田井天来と出会い、四十三歳にして書家を志す。昭和十三年(一九三八)、「平原社」を結成。昭和二十年(一九四五)四月、渋谷区幡代国民学校の学童疎開を引率し、太田村光円寺の寮長として赴任。同時期、福光に疎開していた板画家棟方志功とも親交を持ち、そのひたむきな芸術観に共感し、前衛的な「墨象」の先駆者としての道を歩み始める。
終戦後、一旦は東京に帰るが、戦災で住む家もなく、富山へ頻繁にもどっては、安念家や入道家、光円寺などを訪れ、多くの書を残した。書道講習会を各地で開き、弟子たちと熱く書を論じ、表立雲をはじめ、優れた書家を輩出し、影響を受けた多くの県民がいる。
福光に生まれ育った昭子さんは、棟方志功の子たちと友だちだった。
「福野高校時代の先生が大澤先生の弟子だったので、昭和二十五年八月の書道講習会を受講させてもらいました。棟方志功の家で記念写真を撮ったのが、ホラこれです」
と、セピア色の写真を卓上に示した。セーラー服の美人が三、四人と弟子らしき青年が三、四人、前列には面を着けた棟方志功と、その隣に大澤雅休、膝前の床には画仙紙の大作が横たわり、後ろの壁にも雅休の墨象が異彩を放つ。部屋の様子はまぎれもなく、現在「鯉雨画斎」として移築保存されている、棟方志功の居宅である。
「文部大臣賞など、受賞者が多数出ました。夢や目標があって楽しかったですね」
と、昭子さんは振り返る。この頃、志功と雅休との合作が多く、互いに刺激し影響し合ったことが窺われる。
昭和二十六年六月の講習会を最後に、雅休はふるさと群馬に戻り、二十八年(一九五三)、六十三歳で生を閉じた。
今年十一月、入道さんたち有志は砺波市美術館で「砺波に疎開した大澤雅休展」を開催する予定だ。雅休を偲び、日本の墨象芸術を築いた過程が、砺波にあることを誇りにしたいという。
「まず古典をしっかりやれと、いつも言っていたそうです。保守的な太田の風土によって、雅休の中の新しいものがポンッと出た。平然とした中で芸術性を高めていった、目に見えない情熱を見習いたいです」
喜寿を迎えて穏やかな表情の入道さんだが、声には力強い意志が感じられた。

[談・入道忠靖(「砺波に疎開した大澤雅休展」実行委員長)文・本田恭子]

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旅のお手伝い

菅田朗子さん(ユースホステル天香寺ペアレント) ユースホステル天香寺ペアレント菅田朗子さん

処暑を過ぎても、一向に和らぐことのない暑い夏。だれもがもて余し気味に、八月の終わりを迎えようとしている。
海あり山あり、そして猛暑を乗り越え、黄金に色づきはじめた稲田が広がる朝日町大家庄に、県内唯一となったユースホステル天香寺を訪ねた。
「曹洞宗龍尾山天香寺」、山門をくぐると、手入れされた苔とつつじの庭にひぐらしが鳴きはじめている。正面に本堂、左手に座禅堂が配され、身じろぎさえはばかられる静謐な空間に、一瞬、蝉の声も止まったかに思えた。
庫裡の玄関に立つと、すっと汗が引いていく。冷房があるわけはないのに、さすが寺院の建物は違うと、妙に感心する。この庫裡の一角と、別棟の建物とが、ホステラーの宿泊に充てられているのだ。
開け放たれた涼しい座敷で、お寺の奥様菅田朗子さん(五十七歳、朝日町)に、ユースホステルのペアレントとしてのお話を伺った。
「在家から嫁いできたのが昭和五十一年十二月、二十三歳の時でした。ちょうどユースホステルの全盛期で、当時は食事も出していましたから、朝から晩まで、てんてこ舞いの忙しさでしたね」
小学校の教員になって間もない朗子さんに、さらに覚えなくてはならない寺の行事やユースホステルの仕事が増えた。
「夏は、毎日三十~四十人の宿泊で、バイクが三十台並んだこともありました。おばあちゃん(義母)と二人ですべてをこなさなければならず、無我夢中でした。おばあちゃんは夏が終わると、過労のためよく心臓の発作を起こされ、わたしもひと息つく暇もなく運動会の準備が始まるという生活でした。二番目の子が喘息だったこともあって、しばらくして教員を辞めました」
子どもは四人、半分はホステラーさんに育ててもらったと、朗子さんはふりかえる。まさに、そんな家族のようなふれあいが、ユースホステルの神髄なのだ。
先代の住職は奉仕活動への思いが強く、昭和四十三年にユースホステルを開設された。若い人と話すのが大好きで、十二時を過ぎることもしばしばだったという。
「若い頃って、何かにつまずいて旅をすることが多いですよね。話すことで気持ちが癒されて行かれるのか、住職に救ってもらったと感謝の思いで、家族で訪ねてこられたり、何日も泊まって、やがてお坊さんになった人も、二人いらっしゃいますよ」
おばあちゃんは平成元年、六十七歳で亡くなったが、直前までユースホステルの仕事に一生懸命だった。当時十歳だった長男は、会計や受付、シーツ渡しなどを手伝い、長女は皿にレタスなどを盛って手伝った。
「おかあさん、トイレ掃除したから旅行に連れてって、っていうんですよ。夏休みの終わりに長野に出かけて、あこがれの、ペンションの二段ベッドに泊まりました。子どもたちに助けてもらって、やってこれたんです」
その長男は今年三十二歳。結婚して別居中だが、やがて寺に戻り、夫婦でユースホステルを続けるつもりのようだ。
「その時まで、続けて行かなくっちゃ」
と、朗子さんの表情が明るくなった。
朗子さん自身も大学生の頃は、ユースホステルに泊まって網走、知床の旅をした。母親から、結婚したらそのうちまた行けるから、と諭されて嫁いできた。
「どこへも行けないけど、泊まる方のいろんな人生を知ることができ、感動をもらえるんです。おかあさんを亡くした親子や、女社長でカンボジアに学校を建てると言う方など様々な方が来られます。日本一周している方からは、礼文島や屋久島がいいと聞いて、いつか行きたいなぁとも思います」
就職氷河期といわれたここ数年は若い来訪者がほとんどなかったが、今年は自転車で訪れる若者がふえたと感じている。白馬岳から朝日岳を縦走してきたという学生たちもいる。
「若者も捨てたものでもない。応援していきたい」
経営は大変だが、お寺があるから何とかやれているのかも、と朗子さんは微笑んだ。
「旅のお手伝いができてよかった。ここはいい座禅堂があるし、海や山の環境にも恵まれている。息子の時代には、インターネットと語学力で、海外からの若者ともうまくやっていくと思う。」と、朗子さんは夢を未来につないでいる。

[談・菅田朗子(ユースホステル天香寺ペアレント)文・本田恭子]

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夢の途上

池上栄一さん(陶芸家、小杉焼・栄一窯) 陶芸家、小杉焼・栄一窯池上栄一さん

九月も半ばを過ぎて、ようやく朝晩しのぎやすくなった。夜来の雨が上がった朝は、久しぶりにしっとりとした空気に包まれ、半袖でいいかどうかと迷うほどだった。
射水市、旧小杉町の街はずれに小杉焼・栄一窯、池上栄一さん(七十九歳、射水市)をお訪ねする。落ち着いた玄関から声をかけると、
「やあ、どうぞどうぞ」
と作務衣に身を包んだ陶芸家は、にこやかに客間に招じ入れてくださった。
客間は同時に展示室でもある。力のこもった大作の壷やガラスケースに収められた小品など、作風も異なる陶芸作品の数々が、オーケストラの楽曲のように緩急のハーモニーを奏でている。その心地よさに包まれながら、池上さんからお話を伺った。
「小杉焼はすばらしい焼きものなのに、明治末期で途絶えていたんです。私が小杉焼に出会って感動したのは高岡工芸高校で教師をしていた頃でした。ろくろの技法が非常に優れていて、形がとてもきれいなこと、そして独自の緑釉がすばらしい。何とか復興できないかと思い、古い窯跡へ行って破片を探して調べたり、文献を当たったりしました。そうして昭和四十五年(一九七〇)、小杉焼発祥の地、この手崎に築窯し、小杉焼・栄一窯と名づけました。今年でちょうど四十年になります」
小杉焼は文化十三年(一八一六)頃、高畑与右衛門によって始められ、その後四代にわたり、明治四十一年(一九〇八)まで約九十年間続いたと伝えられている。
池上さんの小杉焼復興は、土探しからはじまったといっても、過言ではない。
「小杉焼の土は炻器粘土といって、火に対して強い粘土です。これを探すのに苦労しました。最初に見つけた土は赤みを帯びていて、少し違う。粘土はまず、なめてみる。すぐ溶けるようではダメ。手ですり合わせて棒状にし、曲げてポキッと折れるようではダメ。とにかくどこを歩いても、土が気になりましたね。やっと見つけた白い粘土でも、焼くと色が変わってがっかりしました」
そんな苦労を積み重ねていた昭和四十八年頃、北陸自動車道小杉インターの現場監督として工事に携わっていた友人から、「大量の粘土が出て困っている。くっつくし、滑るし、どうにかならんか」と持ちかけられた。その粘土を見て、「これなら使える!」と、池上さんは即座に判断し、トラック五台分を確保。おたがいに都合よく、ラッキーな結果となった。
「これだけあれば、二~三代は使えますから、ひとまずは安心です。しかし、昔の本当のいい土には、まだめぐりあっていませんね」
石川県の九谷焼や岡山県の備前焼など、いい土が大量に産出するところには焼きものが栄える。富山県には、越中瀬戸を除いて安定した量の粘土を産するところはないという。しかし、少量であってもそれぞれの土地の土にこだわり、多様な陶芸を展開しているのは、富山県ならではの特徴でもあると、池上さんは胸を張る。
「県内の広範囲に窯元が点在し、それぞれの技法を磨いて『郷土陶芸展』を毎年開催しています。幾多の窯元が加わったり抜けたり、変遷を重ねて四十二回目を迎えましたが、今年は十八の窯から出品がありました」
小杉焼の緑の釉薬についても、文献が残っているわけではない。調合を重ねて研究し、ようやく小杉焼の名に恥じない緑釉に到達することができたという。
「つくること、描くことが大好きで入った陶芸の道です。焼きものの魅力は尽きません。特に窯から出す時の感動は、携わった者でないと味わえないものです」
その一喜一憂の感動を引き出す秘伝の釉薬が、緑釉以外にも二十数種類でき上がっている。池上さんには幸い、後継ぎ夫妻が頭角を顕しているが、釉薬の調合はまだ教えられない。苦労してつかみ取ることが大事だと考えているからだ。
昭和五十年代から、内閣総理大臣賞をはじめ多くの受賞をして来たが、最近は大作より、緻密なものを時間をかけて製陶していきたいと考えるようになった。
「結晶釉の完成や得意な陶彫での作品づくりなど、やらんなんことがいっぱいです」
まだまだ夢の途上の、池上栄一さんである。

[談・池上栄一(陶芸家、小杉焼・栄一窯) 文・本田恭子]

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あと一息

中沖豊さん(前富山県知事、富山県ひとづくり財団理事長) 前富山県知事、富山県ひとづくり財団理事長中沖豊さん

心地のいい朝だった。富山駅前に眩しい秋の光が降り注ぐ中、新幹線駅併設のための工事が着々と進められている。急ぎ足に歩道を行くと、じんわり汗ばむような十月半ば、富山駅からほど近い富山県教育記念館内の一室に、前の富山県知事中沖豊さん(八十三歳、富山市)をお訪ねした。
中沖さんは現在、富山県ひとづくり財団理事長の任に当たっておられるが、県知事時代には「ミスター新幹線」と呼ばれたくらい、北陸新幹線の開設をめざして心血を注いでこられた。きょうはその最初の頃からふりかえっていただきながら、お話を伺っていく。
知事時代さながらの艶やかなお顔に、時折爽快な笑顔を見せながら、話がはずんだ。
「昭和四十年でしたね。金沢で開催された一日内閣の会合で、砺波の岩川さん(岩川毅=当時、砺波商工会議所代表)が北回り新幹線の建設を提案されてね、大変な熱弁をふるい、力説されました。感動しましたね」
昭和三十九年十月に、東海道新幹線が開業したばかりだった。岩川は、そのバイパスとして、日本海側を通り大阪に至る北回り路線の必要性と、北陸における多大な有効性について、データをあげて熱く語ったという。
この熱弁に耳を傾けていた佐藤栄作首相(当時)が検討を約束し、建設に向けて気運は一気に高まった。
昭和四十二年、関係都道府県による「北回り新幹線建設促進同盟会」が発足し、同四十七年には東京―大阪を結ぶ北陸新幹線の基本計画が決定した。以後、「北回り」から「北陸」へと名称を変え、建設促進の運動はさらに広がっていく。
「最初のころ中心になったのは国会議員、地方団体の首長、市町村長、地方議員、それに大事なのは民間の方々ですよ。みんなでやろう、頑張ろうじゃないかという気運にあふれていましたね。東京へ行っては、ワッショイ、ワッショイとやった。みんな、まだ寝んのかというくらい、激しく仕事をした」
と、ふりかえる中沖さん。一等最初は富山県総務部長として、昭和五十五年以降は富山県知事として、北陸新幹線の建設促進に関わってきた。
「計画が動き出して、モノになり始めようとなってから、東北・北海道、九州もいっしょにやろうじゃないかということで、整備新幹線関係十八都道府県期成同盟会が結成され、その代表役を担ってきたのが富山県知事というわけです」
ところが、折からのオイルショックや国鉄の経営悪化などの影響を受け、北陸新幹線を含む整備新幹線全線の着工が、一時凍結されてしまった。六年後の昭和六十三年、国鉄の民営化を受けて暫定整備計画案が発表され、新幹線計画は再び着工へと動き出す。
「新潟までで工事が中断されたとき、富山県ももっと頑張るべきだったかもしれないと、思うところはあります。経済情勢の悪化で、再開はされたものの地方負担を求められることになり、全額国負担のフル規格での認可は、並大抵のことではなかった。全国では、東北、九州が進展し、北海道、長崎も頑張っているが、北陸は幾多の課題を克服し、開通まであと一歩とせまった。力を合わせて頑張ってもらいたい。地域の人たちが元気を出すことが大事ですよ。最後は県民、国民の力が結末をつけるのだから。今が、その時期に来ていると思う」
太平洋側と日本海側をつなぎ、環日本海交流の大動脈と位置づける北陸新幹線の開通を、中沖さんは心待ちにする。
「富山県には優れた風景、景色がある。全国の中でも指折りの住宅環境があり、美術館や図書館も多く、文化が発展している。松村謙三氏をはじめ、人材の宝庫である。これからも世界の優れた地域のモデルになってほしい」
と、県民が誇りに思うふるさと富山県に、いま新幹線の鎚音が鳴り響く。
「ようやくここまできたか、という思いです。長い、ほんとうに長かった三十有余年間。涙が出ますよ。あと一息、ピッチを上げてもらいたい」
ミスター新幹線は福井エリアの着工に向け、力の結集を期待している。

[談・中沖豊(前富山県知事、富山県ひとづくり財団理事長)文・本田恭子]

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手づくり

中島正彦さん(中島印刷所 社長) 中島印刷所 社長中島正彦さん

道端のエノコログサが、白く光って揺れている。小春日和の穏やかな陽射しに、枯れ残った田んぼの畦草も、うたた寝をはじめたようだ。
上市川下流部の橋を渡り、しばらく行くと滑川市の家並にさしかかる。控えめに、軒下から看板がのぞいていた。めざす「中島印刷所」である。作業場は奥の方らしい。庭を進むと正面のガラス戸に、「年賀状印刷承ります」と張り紙があった。
ガラス戸を開けると、ぷーんとインクの匂いが漂う。目の前に、たくさんの活字棚が並び、おびただしい数の活字が、きちんと整理されて収まっている。その活字のひとつひとつに、棚や机や、磨き込まれた床にも、インクの匂いがしみ込んでいるのだろう。
社長中島正彦さん(五十六歳、滑川市)が、満面の笑顔で迎えてくださった。
「今どき流行らんけど、何とかやっとります」
中島さんが、父親からこの印刷所を引き継いだのは、平成九年。それまで正彦さんは、魚津市の印刷会社でオフセット印刷の経験を二十年近く積み上げていた。しかし父親がはじめた印刷所と印刷機を、放棄することはできない。
父幸市さんが、独立して印刷所をはじめたのは昭和二十八年だった。売薬(家庭薬配置業)の掛場帳、精算書、伝票などの印刷を主とし、売薬全盛期の昭和三十年代から四十年代にかけては、正月休みもないほどの忙しさだった。
「どこへも遊びに連れて行ってもらえなかったです。大和デパートへも、大川寺遊園へも行けんかった」
そんな少年時代だったが、成長した正彦さんは、休日には父親の仕事を手伝った。
「活版印刷は、印刷機に紙を一枚ずつ手で通すんです。だから一時間に一千枚がやっと。時間がかかります。今ならオフセットで八千枚、新聞は十五万枚も刷ります。売薬さんの伝票など少量ですから、活版が適しているんですよ。昭和五十年代までは、薬名や商標、屋号を木版で入れた厚袋もありましたねぇ。今はプラスチックの箱に、すっかり替わってしまいましたが」
売薬さんがサービスで配布した食い合わせ表や人生訓、健康十訓、格言集などに、売薬さんの名前や商標を入れる注文も多かった。今も、格言集など時々注文があるという。
「ほかに、会社の作業日報や転勤はがき、年賀状など、滑川市周辺のお客様がほとんどです。昔は、年賀状でボーナスがでたと言いますが、今はとてもとても」
と、中島さんは苦笑する。ボーナスを出せるほどの稼ぎはないが、この仕事をしていると、売薬さんの旅の話を聞けるのが、何よりの楽しみだという。秋田や岩手、四国などから、土地のおばあちゃんの話を聞いてきては、みやげ代わりにと語っていく。売薬さんは、一日に十軒ほども回るというから、話のネタには事欠かない。
問題は、印刷機の修理や活版材料の補充ができなくなってきていることである。
父親が残してくれた活版印刷機は、すでに生産中止になった。ゴムローラーを除いて、交換部品はもうない。修理する技術者もいない。活字は、名古屋から辛うじて取り寄せが可能だ。県内に十カ所未満と推定される活版印刷所に、活字を供給している。直線や点線となる、「毛」と呼ばれる鉛板は、もう入手できない。字間や行間に挟む「インテル」と呼ぶ木板も、もう作られなくなった。
今ある材料を大切に使うしかない。
夕方五時、一日の仕事を終えるとき、中島さんは必ず印刷機に、入念に油を注す。
「そういえば昔、健康診断に行くと、鉛の検査がありました。活字を、口にくわえたりしますからね」
活字を組む中島さんの傍らで、妻の伴衣さんが活字を拾う。字を拾ったり戻したり、印刷の紙を組み合わせたりして、夫を手伝う。夫婦で二人三脚の毎日である。
「休みの日には、夫婦で温泉めぐりが楽しみですわ。高速道路千円を利用して、日帰りで露天風呂、いいですよ」
中島さんには、もうひとつ楽しみなことがある。和紙に活版印刷で名刺を作るなど、手づくりの味わいを求める人がふえていることだ。
「価値を認めてくれる人がいる限り頑張っていきたい」
中島さんは何度もうなずいた。

[談・中島正彦(中島印刷所 社長)文・本田恭子]

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手づくり

山道実さん、久美子さん(山道製菓所) 山道製菓所山道実さん、久美子さん

暖冬が続くとはいえ、十二月に入ると、北陸富山では雪への備えが欠かせない。
庭木があれば雪吊りや雪囲い、車があれば冬用タイヤへの交換、地域の神社や公民館の雪囲いを手伝うこともある。年末に向けての仕事を持つ人は、さらに気ぜわしい。
この日、平野部はまずまずの日和だったが、車の行く手に見える五箇山辺りの山々は、黒い雲に覆われ、しぐれているだろうと気にかかった。
小矢部川の福光大橋を渡り、町のはずれの街道沿いに、山道製菓所を訪ねる。南砺市の城端・福光地区でただ一軒、有平糖辻占を作り続けている。
外観からは作業所らしい様子がなく、黒い瓦屋根が光る普通の住宅である。表札を確かめてそっと玄関の戸を開けた。正月の開花を待つ鉢植えが並び、磨き込まれた廊下に清潔感と律儀さがあふれていた。
元気な奥様の声に案内されて、廊下の横の引き戸から入ると、まさしくそこは作業場だった。中央に大きな作業台があり、「午前中の仕事を終えたところだ」と片付けをされながら、山道実さん(七十六歳、南砺市)と久美子さん(七十六歳)ご夫妻に、お話を伺うことができた。
「飴屋(飴菓子職人)をやってたもんで、昭和二十八年頃、福光の人から習って辻占を始めました。当時は城端にも、三軒ほどありましたね」と、実さんが話しはじめた。
四人兄弟の長男だった実さんは、中学卒業と同時に、東京の飴屋へ奉公に出たという。終戦後間もない頃で、高校へ進学する者は少なく、就職難だったが、親の伝手で探し当てた就職先だった。
飴づくりを習って帰郷した実さんは、家族とともに飴屋(製菓業)を始める。
「そのころは駄菓子屋がたくさんありました。父親が一軒一軒、注文取りに回って、わたしが配達に回りました。こんがし、おこし、しろぼうなど、今も少しずつつくっていますが、当時は家族ぐるみでつくりました。駄菓子屋の店先では大きな四角い瓶に詰めて売っていましたから、くっつくんですよ。そこで畳の切れ端(イグサ)を混ぜて、くっつかないように工夫したりしましたね。昭和四十年頃まで、一生懸命でした」と、実さんは懐かしそうに語る。
妻の久美子さんは福光の在所から嫁いできた。
「里では、正月は朝一番に寺参りをして、帰ってから雑煮を食べました。自分では辻占の思い出はありませんが、里の人たちは辻占の文句と初夢を合わせて、その年の運を占うと聞きましたよ」
正月用に販売される辻占づくりは、十一月初めから十二月いっぱい続けられる。
朝八時、実さんはガス・コンロに点火し、銅鍋で飴と砂糖を煮る。「金平糖や金華糖のように砂糖ばかりだと、固くて細工ができない。飴を二割ほど混ぜると、柔らかくなって細工ができる。それが有平糖です」
程よく煮詰まったところで鍋ごと流水に浸け、かき混ぜながら冷やす。「放っといたら砂糖に返る。加減が難しい。勘ですね」
頃を見計らい、木製のテコのようなものに掛けて、ぐいぐい引っぱり、伸ばす。やけどをするくらい熱いが、ここが勝負どころ。「透き通っていた飴が、真っ白になる。みんな不思議がります」
その後、冷めて固くならないよう、昔ながらの電熱器であたためながら断裁する。
「忙しい時は午前中に二回つくります。近くに住む末弟が手伝いにきてくれるんです。子どもの頃から手伝っているので、慣れたものです。占いの紙を挟んで巻き込むのは、妹が上手だった。曲げたら、冷めても戻らん」
「わたしがやると、ほら、一つひとつ形が違うの」
と、久美子さんが袋詰めしたばかりの辻占を見せて笑った。
占いの印刷は、以前は地元の印刷所に依頼したが、現在は金沢から仕入れている。薄手の紙一枚に百五十の文言が印刷されているのを、切り分けておくのも久美子さんの仕事である。
かわいらしく袋詰めされた辻占は、年暮れに、問屋を通して主に県西部のスーパーマーケットなどに並べられ、正月用にと、ショッピングカートに入れられていく。
「六十年近くやってきましたよ。平成の初めには、みんな止めてしまいました。わたしも病気をしましたし、来年できるかどうか……」
実さんの視線が、宙を泳いだ。継承の方策はないのだろうか。

[談・山道 実(山道製菓所) 文・本田恭子]

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街道ミュージアム

梶谷正治さん(射水市自治会連合会長・戸破地域振興会長) 射水市自治会連合会長・戸破地域振興会長梶谷正治さん

久しぶりに、北陸らしい雪の季節を迎えている。平野部でも、一晩に三十センチを超える降雪があり、少し解けてはまた積もる。朝晩のラッシュ時には、メイン道路も凍結し、のろのろ運転が続いた。十二月のクリスス降雪から約一カ月、屋根や路肩の積雪量は多いほどではないが、間断なく雪を意識する生活が続いている。
大寒に入った日曜日、射水市旧小杉町を流れる下条川のほとりから旧北陸道のあたりを少し歩いた。
冷たく光る流れを背にして立つのは「竹内源造記念館」。小杉町役場として使用されていた木造洋風建築である。見上げると、正面二階に鳳凰の鏝絵が、みごとに羽を広げる。
旧北陸道とX字状に交差するように掛けられた鷹寺橋のたもとに、片口安太郎の像。降り積もった雪でそばまで行けないが、町長や県議会議員を務め、「江東」と号した漢詩人でもあった。現在「小杉展示館」となっている小杉貯金銀行の二代目頭取。この像のすぐ向側に、安太郎の生家、味噌醤油の老舗「片口屋」がある。
広い橋を渡って西に進むと、すぐ右手に黒壁の土蔵造りがみえてくる。「射水市小杉展示館」である。郷倉和子展と書かれた白い張り紙がまぶしい。掲示板脇の黒い石には「登録有形文化財」と刻まれており、平成十一年の登録である。
もっと歩きたいが、約束の時間が迫っている。鷹寺橋を戻り、東へ。結城酒店の立派な旧家の店先を過ぎ、大正ロマンの香りがする旧小杉郵便局を仰ぎ見て、めざすお店へ。店内はかわいらしい手づくり小物や雑貨であふれ、昭和の懐かしさが感じられた。
「親戚の法事から、たったいま戻ったところでして」
と、梶谷正治さん(七十二歳、射水市)が奥から姿を現す。射水市自治会連合会長や戸破地域振興会長として、多忙な毎日である。
「実は私、北陸銀行に勤めておったものですから、小杉展示館には格別な思いがありますねぇ。小杉支店に勤務したことはないんですがね」
北陸銀行百年史によると、明治三十三年、片口安二郎ほか十名が発起人となり、小杉貯金銀行を創設。大正二年、頭取は長男安太郎に代わり、増資や合併を経て、北陸銀行小杉支店として、昭和五十四年まで営業した。
「小中学生の頃、よくお使いに行きましたよ。カウンターの向こうは金網になっていて。砺波の旧中越銀行などと同じですね」 梶谷さんは定年後、訪れる知人から「美術館などはないか」と尋ねられ、よく展示館へ案内した。しかし当時は常時開館ではなく、残念な思いをすることも度々だった。
ぜひとも常設館として、郷土の誇りである小杉焼や郷倉千靱の日本画を展示したいと、地域の女性や高齢者に、一日千円のボランティアで監視員をお願いした。教育長や関係者に働きかけ、ようやく平成十六年、館長と職員一人を置く常設展示館となった。
平成二十二年四月からは、戸破地域振興会で指定管理を受けることになった。
「役場を定年退職された村井豊さんに、館長をお願いし、女性四人と男性一人が交替で勤務する態勢です。催しの企画から、飾り付けや説明なども少しずつ、やっていただいております」
旧北陸道の宿場町として加賀藩本陣や旅籠、茶屋などが街道筋をにぎわし、幕末には戸数四百五十軒を数えたとされる戸破、手崎、三ケ地区は、下条川の舟運を活かした商業地域でもあり、文化を育み発信してきた地域でもある。
梶谷さんが会長を務める戸破地域振興会では、三ケ地域振興会と協力して、この三月、『ふるさと再発見 旧北陸道小杉宿を行く』と題する冊子を刊行する運びとなった。
「小杉展示館もその一つですが、旧小杉町にこんなにもすばらしい歴史・文化遺産があることを、改めて再認識しました。冊子は、市の助成金をいただいて五千部つくりますが、戸破・三ケ地域には全戸配布し、我がまちへの関心と誇りを高めていただきたいと願っております」
映画の舞台として使用された旧小杉郵便局をはじめ、現在は郊外にある本陣屋敷を小杉展示館近くに戻し、一帯をまとめて、歴史と文化のまちづくりに活かしていきたいと、梶谷さんは構想を膨らませている。


[談・梶谷正治(射水市自治会連合会長・戸破地域振興会長) 文・本田恭子]

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川の流れ

高桜英輔さん(高桜内科医院院長) 高桜内科医院院長高桜英輔さん

何年ぶりだろうか。雪のために、JRの運行ダイヤが連日、大幅に乱れた。道路の除雪も遅れがちだった。近年の暖冬傾向からか、除雪予算や人的対応の甘さが指摘されていた。
冬将軍が去り、春の陽気が一気に訪れた二月中旬、黒部市の住宅街に「高桜内科医院」を訪ねた。土曜の午後、ガランとした院内は静かな開放感に満ちている。糖尿病患者と長年向き合ってこられた高桜英輔院長(七十歳、黒部市)に、お話を伺った。
「父が泊町(現・朝日町)で開業しておりましたが、私が中学のとき、同郷の医師草野久也先生にお会いしたことが目に焼き付いて、あこがれというか、医師への志を強く持つようになりました」
進学した金沢大学では、当時はまだ糖尿病への関心は薄く、内科医局の同級生全員が循環器・呼吸器を希望し、あみだくじで高桜さんが糖尿病研究室に入ることになった。
「運命ですね」
糖尿病との長いつきあいが、こうして始まった。
黒部厚生病院(現・黒部市民病院)への赴任も、運命的だった。昭和二十三年に農協立下新川厚生病院として創設された黒部厚生病院の初代院長が、かの草野久也氏であり、昭和四十九年に病で倒れた後を受け、内科医として是非にと、黒部市長が教授に土下座して頼みに来られては、承引せざるを得なかった。
「最初は内科医が一人しかいませんでしたから、学会へも出られず、白衣のまま仮眠する日が続きました。足はつるし、夜逃げしようかと思いましたよ」
と、高桜さんは苦笑する。
やがて消化器、循環器の専門医も充実し、少し余裕もできて、呼吸器は高桜さんが自ら努力して資格を取得した。
昭和六十三年、黒部市民病院の糖尿病患者会「五葉会」が発足。富山県立中央病院などにもでき、平成四年、県内の患者会が合議して「日本糖尿病協会富山県支部」を創設。事務局を富山赤十字病院に置き、ようやく富山県の患者の連携が取れるようになった。
「糖尿病は、患者と医師、看護師、栄養士、理学療法士などがいっしょに取り組むチーム医療なんですよ」
富山の糖尿病対策は、この会を中心に充実してきたと、高桜さんはふりかえる。
「糖尿病はかつて、年寄りの贅沢病のように思われてきましたが、年齢に関係なく、突然発病する一型糖尿病は生後数カ月から起こり得るんです。インスリンを打たないと、二年間で死んでしまいます。昭和五十六年から、患者自身が打てるようになりましたが、インスリン発見から六十年もかかったんですね。最も問題なのは、ヤング糖尿病への無理解です。思春期の真っただ中で、病気を持ちながら、周囲の無理解と闘い、悩み多い人生を送る若者たちです」
学校の授業中にアメをなめている、といじめに遭った中学生。アメは低血糖時の糖分補給に必要なのである。校内放送で説明してくれるよう、学校に理解を求めた。
「思春期糖尿病患者を受け入れる社会環境が、当時はゼロでした。診察室の五分の診療では、不十分です。患者の心理的な支え、トータルな診療が必要だったんです」
黒部市民病院地域医療保険室(藤田由紀江保健師が担当)が事務局となり、協会の事業としてヤング糖尿病サマーキャンプが開始され、患者や親の交流を図った。県内各地から参加者がふえ、「富山子どもヤングDMサマーキャンプ」として、子どもから親まで、すべての年齢層がいっしょに参加する「富山方式」として、全国にも紹介できるようになった。
富山方式のよさは、一番に親が安心することである。オロオロになった親を、親同士が教え合う。子どもは、将来あんなお兄ちゃんたちみたいになれると、可能性や希望を感じながら、安心して生活できるようになる。
「三年前、ヤングはみな元気だし、世話役として参加してもらうだけでいいとして、子どもと親のキャンプに切り替えました。保育士や養護教員も参加し、公的病院のドクターやナースが、ボランティアで奉仕しています。親たちで『補食の会』をつくるなどの活動も生まれています」
今一歩、社会全体の理解と認知度が高まればと、糖尿病を持ちながらプレーする阪神タイガースの岩田稔ピッチャーの活躍を見守っている。
「川の流れが人生観に重なり合う」と、高桜さんは、好きな登山と釣りに出かけるのを楽しみに、春を待つ。


[談・高桜英輔(高桜内科医院院長) 文・本田恭子]

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