聞き書き万華鏡

実を結んだ熱意

橋本弘さん(旧国鉄OB会代表) 旧国鉄OB会代表橋本弘さん

車の窓を開けても、むっとする熱風が吹き込む。梅雨明けが間近い季節となった。
蒸気機関車D51の勇姿を見ようと、南砺市福光の町外れ、福光公園を訪れた。木陰をわたる風が涼しい。買い物の途中だろうか、屋根のあるベンチに老女が一人腰を下ろして休んでいた。
「ふくみつこうえん駅」と書かれたプラットホームに、黒光りのする機関車がどっしりと横付けされている。長さ約二十メートル、高さ約四メートル、重量約七十八トン。手のひらを当て、バンバンと叩いてみる。「よくがんばったね。ごくろうさん」というねぎらいと同時に、力強い親父に再会したような敬愛の情が湧いてくる。格別の思い入れがあるわけではないが、SLには不思議な魅力がある。
昭和五十二年、北海道から運ばれて福光公園に設置されたという、その経緯を知る橋本弘さん(七十歳、南砺市)をJR福光駅に訪ねた。橋本さんは旧国鉄職員で、駅の無人化に伴い、委託を受けて駅の営業管理を行っている旅行会社の社長を務める。
「ほんとうは、この城端線を走っていたC11が福光に欲しかったのですが、なかったので、それではとD51を要望したんです」
そもそも、蒸気機関車を持ってこようという話は、いつ、どのようにしてはじまったのか。
「昭和四十三年三月で蒸気機関車が廃止になりましたが、当時福光駅の助役をしていた高瀬栄さんが、何とか城端線を走っていた機関車を福光に展示したいといいまして、技術屋の竹田八惣治くんと、事務屋の私が、協力したわけです」
その頃、SLを展示したいという要望は全国に多数あり、役目を終えた機関車が各地に運ばれた。現在、検索できるだけでも全国に保存されている蒸気機関車は五百六十輌に上り、富山県内では五カ所に展示されている。
「最初は、なかなかくれなかったですね。それなら動輪でも、といってもらったものが、駅の横と福光公園に置いてあります。それでも何とかとお願いを続け、ようやく説得に応じてもらえました。十年近くも、時間をかけてまとめてきたんです」
この間に、橋本さんは異動で金沢鉄道管理局の勤務となり、待ちに待った蒸気機関車が福光駅に到着する日の感動を、仲間と分かち合うことができなかった。
昭和五十二年十月四日、福光町長をはじめ関係者らが多数出迎える中を、ディーゼル機関車に引かれて「D51 165」がゆっくりと入構した。この日の様子を撮影した写真の解説には、「遠く北海道札幌苗穂工場から、はるばる一人旅をして、福光駅に到着しました」と書かれ、迎える人々の温かい気持ちが伝わってくる。北海道から青函連絡船で海を渡り、途中、機関区ごとに給油しながら車輪を回しつづけ、十日ほどかけて福光駅にたどり着いたという。
「昔の国鉄だから、こんな贅沢ができたんです」
と橋本さん。夢の実現には多くの人と時間と費用が費やされている。
福光町(現南砺市)も相応の経費を工面した。設置場所となった福光公園の整備をはじめ、機関車を駅から公園まで運ぶだけでも相当の経費がかかる。運搬車にクレーンで巨体を移動させる写真には「総重量七十八トン、こんな大きなものをどうして運ぶか。日通重量物運搬車、タイヤ総数二十六本、一日がかりでタイヤに空気を加圧した」とのコメントがある。さらに、「町道通過ということで許可を得た五十二年十一月上旬、雨の降りしきる日であった。ふたたび戻ることのない鉄道からの別れを惜しむ憂愁の雨かもしれない」と、蒸気機関車は小矢部川の橋を渡っていく。
こうして、無事に展示されたD51を手入れし、掃除しつづけているのが、橋本さんたち「旧国鉄OB会」のメンバーである。
「最初は錆で、そりゃあ大変でした。今も五年に一度ほどは、金属ブラシで錆落としをして、ペンキを塗り替えます。動くところは動くように、油も差してやります」
SLとOBが元気なうちに、子どもたちにおもしろさを体験させてやりたいと、橋本さんの夢は続く。

[談・橋本弘さん(旧国鉄OB会代表)文・本田恭子]

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能登通い

飯作重義さん(新川内航海運協業組合理事長) 新川内航海運協業組合理事長飯作重義さん

旧盆を過ぎ、ようやく夏らしい陽射しが海に戻ってきた。しんきろうロードの海岸線から眺める、深い群青色の富山湾。照り返しがまぶしい。
午後四時、魚津港。砂利運搬船「第十二神徳丸」が、一日の仕事を終えて帰港していた。全長五十五メートル、重量百九十九トン、最大積載重量六百八トン。荷を降ろして身軽になった船体を、ぷっかりと港に横たえている。
見上げる船上に、ヘルメットをかぶった頑強な男が二人、何やら打ち合わせているようだ。そのうちの一人が手を上げてこちらに合図をし、梯子を降りてにこにこと近づいてきた。日焼けした顔とやや猫背の体つきに、年季の入った仕事ぶりが窺える。目の前に立ったその人の、意外と小柄な体格に、内心驚く。
「ちょっこ暑いけど、事務所の二階へ行かれっけ」と、新川内航海運協業組合理事長の飯作重義さん(五十八歳、入善町)が、ヘルメットを取って案内してくださった。
二階の窓を開けると、さわやかな海風が舞い込む。その肌触りは、もう秋の気配だ。
飯作さんの船はこの日、朝四時には朝日町東草野の災害復旧工事の現場(平成二十年二月の高波被害)に到着。高波を防ぐ人工リーフの設置に関わり、能登の珠洲から運んできた石を海中に沈める仕事に、汗を流した。船上で、石を投入する機械の操作に当たるのも、飯作さんの仕事だ。護岸や橋桁の工事に必要とされる石や砂利は、比重が重く、硬くて浸食されにくいものが求められる。
「十五年ほど前までは、朝日町小川の元湯から横尾へ、たくさん砂利出しとったけど、今は出なくなったねぇ。昭和四十五年頃は、この魚津港に十五隻のガット船(砂利運搬船)がおって、能登との間を行ったり来たりしとった。セメント袋、普通は五十キロのところを、七尾から一トンのセメント袋をクレーンで積んで運んできた船もおった」
昭和四十五年頃は、まだ木船の時代だった。大きな船でも、せいぜい六十トン。宮崎から能登、舳倉島まで砂利を運んだ。舳倉島では荒波を防ぐ護岸工事が継続的に行われていて、消波ブロックの製作にも大量の砂利が必要とされた。宮崎浜の砂利は、細かいものと粗いものとが別々に打ち上げられ、細かいものは七尾に運ばれ、橋桁をつくるためのベースコンクリートになったという。
「女の人たちも十五、六人ほど、朝の四時半から船に桟橋を架けて、砂利を箱に担いで渡ったもんだちゃ。女の人たちも強いもんやねぇ」
と、飯作さんはむかしの女性の強さに感心する。
飯作さんの家は、代々海運業を家業としてきた。
「むかしは帆前船、北前船やね。筵を積んで北海道へ行ったり、佐渡の金鉱石の運搬もしとったがです。風がないと走らんやろ? 出港の日、母親はわらじを履いて船を引っ張った。力があったもんや」
それに比べると、「今の若いもん、根性なぁてダメや」と口をついて出てくるのも、気持ちはよくわかる。
重い石や砂利を積んで海を航行するからには、危険な目にあったことはないかと尋ねると、
「台風なら避難するし、富山湾が荒れてひどいということはないね。車の事故数を考えると、船は一番安全だよ。北前船の頃も事故なしだった。仕事の最盛期は四月から九月。木船時代は、冬は休み。浜に船を捲いて休んだ」
鉄船になってから、冬も休みなしになったという。
「魚津港の岸壁に今は第十二神徳丸だけになってしもうたけど、てんやわんやの大繁盛しとったこともあった。田中角栄の頃だねぇ。寝る間もなかった」
能登鉄道の敷設が進められていた昭和四十年頃まで、新湊港からも多くの砂利運搬船が能登に向かった。足りない時は九州からもチャーターして運んだという。能登には、砂利を産出するような川がなく、砕石された石にはひびが入るため、でき上がったコンクリートの強度に影響が出る。越中産の硬い天然砂利が求められた所以である。
「能登まで行ったり来たり、ノコギリといっしょやった。ああいう時代はもう来んでしょう」
飯作さんは話し終えると、あすの準備のために船に戻っていった。夕陽が穏やかに海を染めていた。

[談・飯作重義(新川内航海運協業組合理事長)文・本田恭子]

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セラピー

宮崎一彦さん((社)日本盆栽協会富山支部長) (社)日本盆栽協会富山支部長宮崎一彦さん

朝夕めっきり涼しくなった。立山山頂に、例年よりやや早い初雪が来て、シルバーウィークと名付けられた秋彼岸の連休には、立山の紅葉を楽しむ観光客が多数訪れたという。
そんな連休の一日、県外ナンバーの車の多さに驚きながら、富山市北部へと向かう。工場跡地やガソリンスタンド、コンビニなどが並ぶ中に、緑の樹木に囲まれた敷地が異彩を放つ。二階のベランダに松の盆栽が見える。ここに違いない。
ベルを押してドアを開けると、吹き抜けの二階から、「どうぞ、お上がりください」と、声がかかった。階段には、匂いを吸収する炭籠が置かれ、二階に上がると、蘭などの鉢植えや盆栽のために買い置きされた鉢などがずらりと並ぶ。
(社)日本盆栽協会富山支部長を務める宮崎一彦さん(七十四歳、富山市)は塗装業を営む傍ら、多くの趣味を遍歴してきた。
「身体を動かすことが好きではなかったので、ボウリングやゴルフはあまりやりませんでしたが、実にいろんなものをかじってきましたね。カメラや猟銃なども、中途半端でしたがね」と、話しはじめた。
「そんな中で、盆栽が一番おもしろかった。求めても求めても、頂点が見えないというところが、魅力ですね」
宮崎さんは、「盆栽は、人間最後の趣味」だという。
始まりはたいていの場合、「縁日盆栽」。祭りの縁日で気に入ったひと鉢を買い求める。しかしこれはまだ「盆栽」ではない、「鉢物園芸」だと、宮崎さんはいう。
「山野草を採集してきて楽しむのも、導入としてはいい。そこから、美意識を高め、鍛錬してグレードを高めていくと、趣味者から数寄者へと自らの境地を高めていくことができる。そこが盆栽の醍醐味です」
盆栽はご隠居さんの趣味といったイメージを持たれていることにも、宮崎さんは反論する。樹齢数百年の生命の重みは、小さいといえども数十キログラムを下らない。自然が相手の盆栽で、台風を前に鉢の移動もままならないだろうし、日々の世話を続ける集中力にも問題がある。高かろうと安かろうと、三日間水をやらなければ終わり。数百年受け継がれてきた丹精も、水泡に帰す。
「青年期に学習しはじめ、中年になる頃ようやく一定のレベルに達してある程度の満足感を味わえる。趣味者の域に達するということですかね」
(社)日本盆栽協会の歴代会長の中で、感性に優れた趣味者として、岸信介氏が最高だったと宮崎さんは語る。曰く、
「盆栽が趣味と聞いて寄贈を申し出る人があっても、一切受け付けなかった。眼鏡にかなうわけがないですよ。名古屋の盆栽屋へ、よれよれのコートにこうもり傘をさして、よく顔を出したらしい。手入れや鉢替えもプロに任せず、自分でされたそうです」
盆栽を極めようとすれば、確かに経済力が必要だ。しかし美意識を伴わなければ本物にはなれない。
「盆栽は、日本人の美意識の基盤をなすもの。ハブ空港のようなものですよ」ともいう。
宮崎さんも、盆栽を通して焼き物、特に中国陶磁器、茶の湯、絵画などに多くを学んだ。
「盆栽は矮小の世界とは言いますが、自然が造形したものであることが大事。生き物ですから、毎年四季折々の変化を見せてくれます。座敷や床の間に、主木に合わせて掛軸や添えの水石を選んで季節感を演出する。わび、さびの世界ですね」
プロの手も借りながら、春は植え替え、六、七月は松の芽きりが欠かせない。夏場の水やりは一日四回。「オヤジ、盆栽もう止めたら?」と家族に揶揄されながらも、汗だくになってシャワー室に駆け込む日々だという。
「仕事や人間関係でくよくよしている時でも、手入れをしている時はすべて忘れる。何よりのセラピーですよ」
初歩の人も気軽に楽しめる『盆栽倶楽部』を富山支部内に設け、裾野の拡大を図っている。
「富山の冬は雪が降りますからね。鉢を小屋へ入れるのが一苦労です」
宮崎さんはピンセットを巧みに操り、五葉松の古葉を取りはじめた。

[談・宮崎一彦((社)日本盆栽協会富山支部長)文・本田恭子]

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ウォーキング

松原和仁さん(ウォーキング冒険塾塾長)ウォーキング冒険塾
 ウォーキング冒険塾塾長松原和仁さん

三年ほど前、しばらくだったが犬を飼っていた。毎日の散歩に、近くの公園や空地に出かける。知らず知らずのうちに、アスファルト舗装ではない、土と草のある場所を求めていた。犬がそれを喜ぶように思え、自分もまた時折立ち止まって、小さな草花を眺めるのが楽しみだった。内気な犬だったが、河川敷に出るとあっという間に駆け出し、雪野原では兎のように跳ね回った。
犬がいることで、日常と自然との距離感が近かったように思える。その犬がいなくなり、散歩の習慣も途絶えた。歩く機会がほんとうに少なくなった。
仲間といっしょに、ウォーキングを楽しむ人たちがあるという。県民カレッジ自遊塾で「ウォーキング冒険塾」を企画し、講師を務める松原和仁さん(六十二歳、富山市)に、お話を伺った。
「自遊塾がはじまった第一回目に応募して以来、十五年間ずっと続いている講座なんですよ。今年は十五周年記念でヨセミテ国立公園へ行ってきました。一日に八~十五キロメートルのトレッキングで五泊七日。ジョン・ミューア・トレイルをはじめ、大自然の真っただ中で、きょうは何があるだろうと、わくわくする出会いの連続でした」と、いきなりうらやましい話が飛び出す。
松原さんが講座をはじめた十五年前は、まだ「ウォーキング」ということばも耳新しい頃だったが、歩くことの楽しさで、講座はすぐに満杯になった。毎週土曜日、年間五十五、六回の開催で、海から立山山頂までを七回に分け、また冬には富山湾岸百キロにチャレンジしたり、里山沿いを縫うようにコースを取るなど、一日に十~二十キロメートル、県内を縦横に歩き尽くし、白馬や上高地辺りへも出かける。
「最初の五、六年は、新ルート開発に下見をするのが大変でした。今は三月にメニューをつくり、年間スケジュールがほぼ決まります。体育館でトレーニング目的で歩くのではなく、自然の中でのウォーキングを大事にしたいですね。雨の日もあれば雪の日もあり、それによって自然と身体が一体となり、五感も働きます。手が自然の振り子、普通に歩くことで、人間の心肺機能が成長していくのを実感できますね。ま、遠足のようなもので、おにぎりを食べてまた歩く。歩きながら花を見たり、いろんな楽しみがあります。ゴール後の食事やビールが、またおいしい」
松原さんのウォーキングは、自然との一体感を大事にしている。
「五月末の第一回目のときには、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』の話をするんです。自然を感じましょう、堤防上の植物を十種類以上は感じ取ってくださいと話します。人間、二本足で歩けることを大事にしなくちゃ。現代は車社会で、足の機能を失ってきている。自然の中を歩くことで、頭も活性化し、細胞が生き生きし創造的になる。歩くことは心身の健康に必要なことです」
ところが、日本では歩く道がどんどん少なくなってきている。農道も舗装化され、足裏の感覚を刺激する砂利道やあぜ道も消えていく。曲がりくねった小川や道を探すのが困難になってきた。高速道路によって、風景も失われてきている。
ウォーキング冒険塾では、できるだけ車を使わず、公共交通で出発点まで行く。たとえば、地鉄電車で宇奈月まで行く時、愛本駅の古さに、えも言われぬ良さを感じ、いつも記念写真を撮るのが恒例だという。
「道路が車のものになってしまった。イギリスのフットパスのように、歩く道を行政が造らなきゃならない。私有地の中を通るフットパスは、人間には歩く権利があることを認めているからなんですよ」
利便性や効率ばかりを求める社会のあり様に、松原さんは警鐘を鳴らす。中山間地に広がる棚田のような、癒される空間が少なくなっている。
「道草できる道、道草できることが大切です。『僕の前に、道はない。僕の後ろに、道は出来る』という高村光太郎の詩が好きですが、富山の道はどんな道でしょうね…?」
と、松原さんは首を傾げて笑った。

[談・松原和仁(ウォーキング冒険塾塾長)文・本田恭子]

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創意工夫

般林雅子さん(砺波郷土資料館職員)
 砺波郷土資料館職員般林雅子さん

「民具」と聞いて思い出されるのは、どんなものだろう? 農耕に使った犂や鍬、脱穀の道具や臼杵、こね鉢、ご膳やお椀、わらぐつや蓑笠など食事や生活用具、蔓や竹で編んだ籠類、織機や糸車、山仕事や養蚕、川漁・海漁の用具など、それぞれの地域に密着した生活と生産の道具類が、あれやこれやと際限なく思い起こされる。
民具の調査・収集・展示の現場では、膨大な収集物の整理を、どのようにされているのだろうか。枯れ葉舞う、晩秋の砺波郷土資料館に、般林雅子さん(六十二歳、砺波市)をお訪ねした。
「最初から民具に興味があったわけではないんです。学校では社会や歴史は好きじゃなかったし。ここへお手伝いにきているうちに、どんどん民具が集まってくるのに、みなさん忙しくて整理ができない。そこで佐伯安一先生の指導で、少しずつ手がけたのが始まりです。そのうちに、来館される先生方の話がおもしろくて、いつの間にかすっかり取りつかれてしまったんです。まるで亡霊に取りつかれたように」と笑う。
砺波広域圏から集まる民具には、同じものもたくさんあるが、並べて見比べるうちに、使い手の工夫や変遷の過程が見えてきて、とても興味深い。だから砺波郷土資料館では、同じものでも集めるのが方針だという。現在、登録点数は一万点近くになる。
最も印象に残っているのは「ホージのスキ」で、戸出の放寺地区で昭和四十二年頃から集めたものの中から、当時古い形のスキ(犂)を探されていた神奈川大学の河野通明教授の目に止まり、犂の原型が発見されたことだという。
「今年の六月にできた新しい民具館では、展示スペースを広くし、多くの方に見ていただけるよう、心がけています。各民具の提供者のお名前を入れているので、うちが出したものだと懐かしがったり、両親をつれてきたり、近所の人が見に来たり、何人もリピーターが訪れます。捨ててしまって残念がる人もありますね」
「連絡があれば見に行くんですが、子どもが都会に出てしまった空家では、むかしの家財道具はマンションには不要だと、仏壇まで置いてあることも。屋根裏まで上って、ほこりまみれになって作業をするので、何を引き取ってくるか、見極めが大事です」
と、般林さんは気を引き締める。もらってきた民具には汚れのひどいものも多いが、洗っていると、むかしの姿がよみがえり、裏側に購入年月などの墨書を発見することもあり、楽しみだという。
引き取った民具は、文化庁の分類とは別の砺波独特の分け方で、九分野に分類される。春の耕起や田植えから冬までの作業別農具、養蚕や川漁の用具などは農林業に。紡織や酒造りなどは手工業に。さらに衣、食、住、運搬などの項目があり、嫁入りや産育、祭りなどは社会生活に分類される。
「たとえば金槌は、大工や桶屋も使うし、家庭でも使います。そこで、大工さんが使ったものは大工道具へ、家庭から引き取ったものは家庭へ分類して収納し、提供された先がわかるようにカードに記入しておきます」
保存も、悩みのひとつだ。着物は毎年虫干しが必要で、ボランティアの会にお願いしている。わらや土のものは崩れてくるが、地元には修理する人がもういない。
「民具には創意工夫があります。鍬一本でも、自分の身体や使い方に合うように、長さや角度を調整しています。身の回りの植物などを知り尽くして、上手に利用している。腐るまで使って土に還すから、また再生できる。自然の曲がりを利用したり、木の皮などで強度を出したり。こんな所にこんなものが使ってある!と驚かされます。技術国日本の凄さを感じます。民具を通して文化を見ていただきたい。文化は人間の根本を教えてくれます」
できる限り、この仕事を続けたい。娘も民具に携わる仕事をしているので、話が合って楽しいと、般林さんは目を輝かせて熱く語った。

[談・般林雅子(砺波郷土資料館職員)文・本田恭子]

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山岳監督

多賀谷治(山岳ガイド)
 山岳ガイド多賀谷治さん

二〇〇九年の富山県は、映画の話題に事欠かなかった。ひとつは、アカデミー賞外国語映画賞受賞に湧いた『おくりびと』。滝田洋二郎監督をはじめ、映画の原点となった『納棺夫日記』など、富山県ゆかりの話題で注目された。
この話題と双璧をなしたのが、『劔岳 点の記』である。日本の近代登山が始まった明治末期、山岳測量のために未踏の聖地劔岳山頂に挑んだ人々の物語である。主な撮影地となった立山連峰一帯で、延べ二百日に及ぶ長期ロケが行われ、迫力ある大自然をとらえた映像と、過酷な自然に挑む勇気や信念を持つ生き方が、感動をもって迎えられた。
映画は六月に公開され、全国で二百四十万人の観客を集めたという。そして十二月、日本アカデミー賞の十一部門で優秀賞受賞が発表された。
木村大作監督がコンピュータ・グラフィックスを一切使わず、実写にこだわった映像で観客を魅了できたのは、まずそこに「劔岳」と、それを取り巻く大自然が存在したからに違いない。
さらに、山岳監督としてスタッフに加わった山岳ガイドのリーダー多賀谷治さん(五十四歳、立山町)の、陰の功績も大きい。
この冬一番の寒波に見舞われ、大雪となった立山町に多賀谷さんを訪ねた。一週間のガイド仕事を終え、山から戻ったばかりのところだった。
「久々の大きい寒気だったからね。今回は基礎を終えた若いガイド希望者の実践訓練でしたが、西穂高の予定を変更して鍬崎山にしました。それでも、行きは膝までしかなかった雪が、帰りには胸まであったからね」
富士山での遭難事故が報じられていた。
「向かったのが、間違いですよ。まともに勝負して勝てねぇッすよ」
山を侮るなと、山岳ガイドは言った。そして、ガイドの仕事について、言い放つ。
「こんないい仕事、ないですよ。大自然の中ではストレスもないし、人間本来の姿に戻れます。健康づくりにも最高ですよ。ただ、収入がちょっとね」と笑った。
「秋田県出身。中一で登山部に入部。以来、山一筋の人生を歩む。芦峅寺の立山ガイドには長年の蓄積があり、学ぶことは多いという。たとえば劔沢小屋の主人、佐伯友邦さんからは、「鉄砲は撃たん方がいい。猟師、山を見ずといって、辺りを見ないで歩く。歩き方が雑になる」と教えられた。だから多賀谷さんは鉄砲を持たない、カメラも持たない。ひたすらガイドに専念する。
「事故は未然に防いで当たり前。映画の撮影はヒマラヤ登山みたいなもので、長期にわたる。最大限に監督の希望をかなえながら、安全面を確保することに神経を遣いました」
それでも肝を冷やしたことは何度かある。背筋が凍る思いをしたことも、あるという。
「みんなで雪渓を渡っていたとき、先頭の十人ほどが渡ったときに亀裂が走った。すぐに引き返して無事だったが、安全・確実に、堅く攻めていれば渡らなかった筈だ」と、自らを戒める。
山を知り、山で動けるガイドならではの提案も随所に活かされた。
「撮影現場まで一時間半歩いて行って、十分間の撮影で終わり、ということがありました。せっかく来たんだから何か撮るものはないか、それならと、熊撃ちの棒ずり(グリセード)をやって見せたら、これが大受けで、このシーンを活かすためにストーリーが変わった。美術さんから、あまりいろいろ提案しないでくださいといわれましたよ」と、多賀谷さんはいたずらっぽく、鼻に手をやった
最後のシーンにも裏話がある。撮影ポイントは八ッ峰。
「カメラを持って行って、一時間後に撮影できます、と移動を敢行した。映画を見た登山家田部井淳子さんが、よくぞ撮りましたねと感心されたのがうれしかったですね」
ロケが続くうちに、すっかり映画づくりにのめり込んでしまったと振り返る多賀谷さん。いまも、監督や出演者との交流が続いている。
「この映画を通して、山のガイドに光が当たった。劔は達成感のある山だ。多くの人に登ってほしい」と結んだ。
正月は劔岳で迎える。ガイドの予定が入っているという。

[談・多賀谷治(山岳ガイド) 文・本田恭子]

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冬のモニュメント

北野浩(富山県岩瀬スポーツ公園管理事務所 所長代理)
 富山県岩瀬スポーツ公園管理事務所 所長代理北野浩さん

「富山県岩瀬スポーツ公園」。富山市内のスポーツ好き、中でもサッカー少年には特になじみが深いかもしれない。
よく手入れされた芝生グラウンドでは、HFL(北信越フットボールリーグ)などの試合も行われ、テレビ中継されることもある。銀色屋根の健康スポーツドームは、遠く牛岳温泉スキー場や滑川市東福寺野自然公園からも容易に見つけることができ、格好のランドマークとなっている。
そして冬になると、もう一つ話題の種が加わる。今年の作品は「合掌造り」だという。
十日ほど前に降り積もった雪は、すっかり解けてしまったが、「合掌造り」との出会いを楽しみに、岩瀬スポーツ公園へとやってきた。
国道四一五号線に面した正面入口。両脇の石積みと深々とした緑の植栽の上に、あった! みごとに組まれた合掌の屋根。仰ぎ見る高さと大きさに圧倒される。定規を当てたように美しく並ぶ細竹の列。小気味よく天を切り取る。縄の結び目が一直線にそろい、まるで茅葺きの屋根がそこにあるかのような錯覚にとらわれる。明かり取りの窓や障子戸の桟を、竹と縄だけで表現する巧みさ。かつて、小杉左官を率いた竹内源造が鏝絵をはじめたのも、こんな遊び心だったのかもしれないと、ふと思う。
公園内の管理事務所に、所長代理北野浩さん(四十三歳、富山市)をお訪ねし、このユニークな雪囲いについてお話を伺った。
「富山にちなんだものを作ろうということで、造園屋さんと頭をひねっているんですよ。暮れが近づいてくると、今年は何にする?って…」
雪囲い富山シリーズは、三年前からはじまった。最初は、地元岩瀬にちなんだ「北前船」、昨年は「富山城」、今年は「合掌造り」と、だんだんテーマの範囲が広がってきた。
「昨年の富山城は、力を入れすぎたくらいでしたね。天守閣のシャチホコを縄で作ったんですが、これがすばらしかった。ぜひ欲しいと、見られた方からご希望があって、三月に雪囲いを外した後、引き取っていかれました」
年々、認知度が高まっているのを、北野さんは感じている。園内を巡回していると、写真を撮りにきている人をよく見かける。「今年は何を作られますか?」と、電話で問い合わせがくる。
「植栽はツゲですから雪には強いんです。強いて雪囲いは必要ないんですが、モニュメントとして作っています。造園屋さんは、合掌造りの写真を見ながら作ります。責任者が、少し離れたところから、屋根の角度などを見て指示を出し、高所作業車で作業します。四日ほどかけて作りましたね。来年は何?と、早くも聞かれるんですよ。また頭を悩ませんならん」
と、北野さんは明るく笑った。
雪は、時に思いがけない美しさを演出する。
「雪囲いに積もった雪の解け具合がおもしろいですね。園内のアメリカフーの実に雪がついて、凍ってきらきらしているのも美しいですよ」
雪が積もった朝は、犬の散歩やウオーキングに来る人たちのために、小型除雪機でメイン道路を開ける。事務所からスポーツドーム、スキー山への道もつける。
「雪の夜のドームは、まるでUFOが降りたようです」
半透膜でできている銀色のドームは、夜には明かりがポーッとにじみ出る。うっすらと積もった雪を透かして浮き上がるさまは、さながらUFOのように幻想的だという。
公園内には、多くの樹木が植えられている。アジサイ、ハナミズキ、サツキなどが園路を彩り、スダジイなど食べられるドングリが人気だ。ケヤキなどの広葉樹の落葉で作る腐葉土も喜ばれている。
「殺虫剤はできるだけ撒きたくないんですが、夏場、サザンカにチャドクガなど害虫が発生したときには、事前に近所の住宅にお知らせして散布するしかありませんね。スズメバチも、子どもがさされると大変ですから、夜間のうちに退治します」
北野さん自身にも三人の子がいる。「何でもやらせてみることが大事」と、休日は子どもと一緒にスキー、釣り、畑で野菜づくりなどを楽しんでいる。

[談・北野浩(富山県岩瀬スポーツ公園管理事務所 所長代理)文・本田恭子]

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楽しくて、うれしくて

稗田康雄(刀鍛冶)
 刀鍛冶稗田康雄さん

二月に入って、何度か本格的な積雪を見た。特に県東部に多く降り積もった今年の雪。魚津市の山沿いも、たっぷりと生クリームに覆われたデコレーション・ケーキのようだ。その麓から、車一台がやっと通る細さのつづら折りの道が、棚田の縁を縫うように上へと続く。高所恐怖症でなくとも、ハンドルを握る手に力が入る。眼下に見下ろす棚田とその先に広がる富山湾の絶景を楽しむのは、この道を上り切ってからにしよう。
時折風が吹くと、高い杉木立から雪が舞い散った。山の上の小菅沼集落にも高齢化の悩みは深いと聞く。雪に突っ込むように車を止め、めざす刀工の仕事場に足を踏み入れた。
白い装束に身を包んだ稗田康雄さん(五十八歳、魚津市)が、左手でふいごを動かしながら炭火に風を送っていた。ゴーとふいごがうなり、炭火は真っ赤に怒り出す。炭の中が千五百~千六百度に達すると、中に埋められている鉄の塊がブツブツブツと音を立てて沸いてくるという。
仕事を続けていただきながら、ぼちぼちとお話を伺った。
「生まれは海の方でね。子どもの頃から刀が好きやった。ご飯を炊く窯の中に針金を突っ込んで、叩いて刀を作って遊んだ。作るのが好きだった。しかし刀鍛冶という職業があるとは、思いもしなかったね」
中学卒業後、滋賀県の会社に就職。スキーに行き骨折して入院した。近くの病室に盲腸で入院している娘がいたが、その父親が、新聞に入選が報じられていた刀鍛冶であると判明。ぜひ弟子入りしたいと頼み込んだ。
「最初は、親の了解を得て来いと断られました。会社を辞めると言ったら、二回目は上役が心配して付き添ってきてくれました」
上司にかわいがられるまじめな子ならと、弟子入りを許される。十六歳だった。
「会社で給料もらうより、刀をやりたかった。好きだったから苦にならなかった」
と、親方のもとでの住込み生活がはじまる。
「『炭きり三年、向こう鎚五年』といわれる修行だが、一年余りで横座に座ることを許され、ふいごを吹いた。向こう鎚は、現在は機械に打たせるので必要ないが、一通りの修練は積んだ。五年の年季が明けると、親方の署名で免許が取れた。他の親方に弟子入りした人の中には、免許を取っても刀を打ったことがないという人がいて、うらやましがられたという。
二年のお礼奉公を終えてふるさとに戻る。数年後、小菅沼に空地を借り、仕事場と住まいを建てて移った。粘土やブロックで火床(鍛造用の炉)を作り、ふいごも作った。修理しながら今も使いつづけている。
刀を打つにはまず材料。日本独特の製法による「和鉄」は、還元の仕方が違う。明治以前の和鉄を使い、低温鍛錬を繰り返すと、独特の模様が浮き出てくる。いわゆる「景色」である。
「作業工程で一番大事なのは、『積み沸かし』。鉄が火床の中でまんべんなく沸いていないとくっつかない。親方は何も教えてくれなかった。自分で失敗して研究するから、いろんなことを発見できる。それを教えてくれた」
積み沸かしを二回、鍛錬を六~七回、これで丸一日かかる。一本の刀を仕上げるのに一週間から十日かかるという。
親方のところにいたとき、打たせてもらった刀がある。注文主は市役所勤めの役人。精神統一のために欲しいとのことだった。しばらくして、「刀のおかげで悩みを乗り越えられた」と、感謝の手紙をもらった。刀から出るオーラを感じてもらえた。この仕事をやってよかったと、心に残った。
刀に求められる美しさと切れ味は、表裏一体のものとされるが、鑑賞用に美しさを求める風潮は、古くからあったという。
「今打っているのは短刀ですが、注文主は目の肥えた方です。自分なりにできたつもりでも、どう評価されるか、持参する時はいつも緊張しますね。いいものを作りたい、その思いだけで四十年間、打ち続けています」
景気のせいか注文は少なくなったが、作ることが楽しくて、うれしくてと、稗田さんは少年のように目を輝かせた。

[談・稗田康雄(刀鍛冶) 文・本田恭子]

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ふるさとを映す

竹内伸一(元射水市教育長)
 元射水市教育長竹内伸一さん

春彼岸を過ぎて寒の戻りがあった。平地でも雪が散らつく。この冬は寒暖の差が激しかった。
射水市新湊を訪れた日も、数日前に黄砂を降らせた春風とは打って変わって、冷たい風が頬を刺す。内川べりに人影はなく、船だけが所在なげに、もやっていた。
水郷を背に天然の良港として栄えた新湊の歴史は古い。かつて北前船でにぎわった港町に電車が通り、学校が建ち、潟が埋め立てられて工業地帯となり、新興の町は南へと伸びた。
電車の駅にほど近い住宅地、奥まった路地に竹内伸一さん(七十六歳、射水市)をお訪ねする。
「やあ、この場所よくわかりましたね」と、気さくに部屋に案内され、準備されていた資料を広げながら、さっそく本題に入る。
「わたしの旧姓は『飾』といいまして、富山県に一軒しかないんですよ。古くは『錺』という字を使い、錺職人つまり金銀金具の職人だったんですね。小学生の頃は、変な名前やねぇといわれて、自分でも変だと思うし、恥ずかしくてしょうがなかった。最近になって、少し調べてみようという気になりましてね」
竹内さんは元射水市新湊博物館長でもあり、調べる資料に事欠かない。まずは、母よし以さんから聞いていた話をまとめると、よし以さんの義祖父は「錺屋勇蔵」。新湊町新町に住む錺職人で、一週間ほどこもりっきりでトンテンカンと仕事をし、よく酒を飲む人だった。高岡に菩提寺がある。よし以さんの義父「錺勇次郎」は、錺職人の仕事が成り立たなくなったのだろう、同じ場所で道具商を始めている。そしてよし以さんの夫であり、竹内さんの父である「錺勇作」さんは、卒業後、教員になり、二の丸本町に住んだ。よし以さんは六渡寺の北前船の家に生まれたが、安定した教員ならと、嫁いできたという。しかし勇作さんは若くして死を迎え、よし以さんも教師をしながら三人の子を育てた。伸一さんは次男で、姉が嫁いだ相手が亡くなり、子がいなかったので養子となり、竹内姓を名乗ることになった。現在、飾姓は長男が継ぎ、残っている。
さて、明治期の錺職人「錺屋勇蔵」について、富山県が昭和三十三年に発行した富山県史『富山県の歴史と文化』近代の学芸の項に、「八尾曳山の金具を刻んだ錺屋勇蔵(貫山)は、明治の作家である」と記述されており、貫山と号して、国指定重要文化財である八尾曳山の金具類をはじめ、新湊新町の曳山の車輪金具なども手がけたことが知られる。
「この項の執筆は元富山県知事の吉田実さんで、芸術・文芸に造詣の深いお方でしたね」
竹内さん自身も、富山県史編纂委員の一人として現代史を担当した。この仕事に携わったことを生涯の思い出だと語る。
さて、さらに資料をひも解くと、文化・天保年代に名を残した「錺屋清六」との関わりが気にかかる。
富山市科学文化センター(現富山市科学博物館)主幹学芸員渡辺誠氏などの研究を読み解くと、高い測量技術をもって加賀藩の測量に携わったとされる新湊の測量家石黒信由について、信由考案の磁石盤の多くが「錺屋清六」の製作であり、その目盛盤の裏書きには、「高岡錺屋清六 細工」などと記され、「高岡御馬出町の銅工」とされる。同時代に磁石盤を製作した金沢の「錺屋安兵衛」に比べ、清六には失敗がなく、より精緻な技術をもっていたとされている。
竹内さんは、「錺屋勇蔵」の菩提寺が高岡であることなどから、高岡から新湊へ移ったものか、信由を介した清六と勇蔵とのつながりがあるのではないかと、深く興味をもっている。錺職が金沢城下から高岡城下へ、さらに北前船で繁栄した新湊へと、時代を追って変遷してきた流れがあるのではないか。加賀文化の特徴の一つである、錺職人の系譜の一端がひも解かれていくのは、ドキドキする作業である。
珍名には、ただ珍しいというばかりでなく、その土地の歴史、地域の姿が映し出されていると、竹内さんはいう。
「ふるさとを残しているといえるのでしょうね」
竹内さんには、懐かしくも恋しい、ふるさとの情景がある。漁師町の秋の曳山まつり。苦労した母親が晩年、来年は見れるかな、と繰り返し言っていた最後の曳山まつりを、今もせつなく思い出すという。

[談・竹内伸一(元射水市教育長) 文・本田恭子]

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エール

徳田清信(元城端曳山会館館長)
 元城端曳山会館館長徳田清信さん

春の大型連休を間近に控えた砺波街道では、「となみチューリップフェア」の案内看板やルート標識があちらこちらに設置され、県内外からの観光客を待つばかりだ。寒気が居座ったこの春の気候で、チューリップの開花がやや遅れ気味というが、五月にはみごとな笑顔を見せてくれるだろう。そんなことを思いながら、車は砺波を抜け、城端に向かう。
城端曳山祭も、平成十八年からは五月五日に催行されている。祭りを前に、今頃はどんな準備が進められているのだろうか。城端曳山会館に徳田清信さん(南砺市、六十七歳)をお訪ねした。
徳田さんはこの三月まで曳山会館館長を務められ、城端曳山祭の重要無形民俗文化財の指定にも尽力された。小山昇新館長とともに、お話を伺った。
「曳山祭には、旧町内十三カ町のうち九町内が関わり、うち六カ町が曳山をもっています。私は村部蓑谷の生まれですから、じいさんに連れられてお祭りに来るのが楽しみでしたね。昔は村部からも獅子舞を繰り出して花を添えたもんです。昭和二十七年頃だったか、獅子とりにきて踊ったのを覚えていますが、一度でいいから山に乗ってみたかった。六カ町の男の子しか乗れなかった」
と、徳田さんが話しはじめる。曳き方は村部の農家が受け持つので、最近ではおじいちゃんが曳き方をしている子は、一服のときにちょっとだけ乗せてもらえるのが、公然の秘密のようである。
街の目抜き通り、国道三〇四号線は、拡幅されてすっかり広くなったが、昔の道幅は声をかければ届くくらいのものである。軒を寄せ合う裏通りの風情に心惹かれる人も多い。そんな町ならではの工夫が、曳山の屋根に施されている。軒先がつかえそうな狭い道では、曳山の屋根をそり上げて通り抜ける。危険な箇所にさしかかる前に停止して、庇をそり上げるのである。地元の大工が四人、四本柱につかまって、無事を見守りながら巡行する。
「県内二十四カ所、全国千三百カ所の曳山がありますが、観に行った帰りの車の中ではいつも口を揃えて、うちのが一番いいなぁと言い合って帰るんですよ」
重文指定を受けた城端曳山祭の特徴はいくつかある。神輿渡御の行列を先導する獅子舞と剣鉾、神が降臨するとなる傘鉾と絢爛豪華な曳山と庵屋台という三点セットがそろっていることが最大のポイント。曳山に施された彫刻のみごとさや金箔塗の豪華さ、金具の精緻さ、日本一大きいという御神像、「ぎゅう山」と呼ばれる車輪のきしみ、庵屋台と庵唄の独特の情緒など、洗練された日本の民俗文化を今に伝えている。
城端曳山会館は昭和五十七年、県内初の常設展示館としてオープンし、六台の曳山を三台ずつ交替で展示している。年間一万二千人の入場があり、高速道路の開通後は中京圏からの観光客がふえたという。
「小さな田舎町にこんなに絢爛豪華な曳山があることに、みなさん驚かれます。若連中が唄を唄うことも喜ばれますねぇ」
庵唄は七十曲以上ある中から、その年に唄う曲を、各町内で毎年一月に選定し、寒稽古に励むという。
「庵屋台の中に、笛、三味線、太鼓の地方と、唄方合わせて十二、三人ほどが入ります。若連中の稽古は公民館などで行われますが、今ごろは最後の仕上げですね」
平成十七年、曳山会館のすぐ近くに伝統芸能会館「じょうはな座」ができた。ここで毎月二回、庵唄の定期公演が行われる。
「ちょうどその日に当たった人たちは、感激して帰られますよ。県外からバスで来るからと、特別に演じることもあります。こりゃあ、祭りの本番にぜひ来んならんねと、ほんとうに喜ばれます」
しかし、悩みは何処も同じで、若い衆の都合が付きにくくなっている。これからは曳山の修理も大変になる。
「昨年、一昨年は大黒様と布袋様の衣装を七十年ぶりに作り替えました。元通りに復原、再現していくのはなかなか大変です。幸い、塗は地元に小原治五右衛門十五代が健在ですし、後継も控えていますので、今後の曳山を守っていってほしいと願っております」
徳田さんの楽しみは、全国の曳山祭行脚。重文指定二十八カ所をはじめ、曳山で交流する仲間たちと、毎年持ち回りで集い合う。「若い衆も外を見るといい」と、徳田さんは熱を込めてエールを送った。

[談・徳田清信(元城端曳山会館館長) 文・本田恭子]

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